身延線(JR東海)富士山と富士川を車窓いっぱいに楽しむゆる旅

富士山と富士川を望み、ともに旅する路線・身延線(JR東海)

日本全国津々浦々をつなぐ鉄道路線。

そんな日本の鉄道路線は、150年以上の歴史を持ちます。

日常の一部でもある鉄道路線は地域と密接に関わり、さまざまな歴史とともに走ってきました。

通勤・通学で使用するなじみのある路線にも、思いがけない歴史があるかもしれません。

旅の目的地へ連れて行ってくれる路線には、見逃せない車窓が待っています。

さあ、鉄道路線の歴史の風を感じてみませんか?

今回は、富士川とともに歴史を歩んできた山岳路線・身延線(JR東海)をご紹介します。

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身延線の歴史

富士川の舟運から生まれた路線

静岡県の富士駅と山梨県の甲府駅とを結ぶJR東海の身延(みのぶ)線は、富士川の流れとともに歩んできた路線です。

全長88.4km、多くの区間で富士川と並走し、富士山と食のまちである富士宮市や身延山久遠寺への玄関である身延町、武田信玄の隠し湯ともいわれた下部(しもべ)温泉など、沿線には多彩な見どころが揃っています。

身延線の前身は、富士身延鉄道という私鉄です。

明治時代まで、富士川は甲州と東海道とを結ぶ舟運の大動脈で、1日に100隻ほどの船が行き来していました。

しかし、富士川は日本三大急流に数えられるほど流れが急な暴れ川。水運には事故が多く、甲府へ遡上するにも大変な時間と労力を必要としていたため、明治時代から鉄道の敷設を望む声がありました。

政府も、中央本線の次に建設する路線として富士川河口近くの岩淵から甲府までの岩淵線を構想しましたが、日清・日露戦争による財政難や、中央本線開業に伴う富士川舟運の衰退により難航します。

善光寺駅周辺をを走る42系。戦前より横須賀線や東海道・山陽線京阪神地区で活躍していた車両である(1970年9月撮影)

富士川の鉄道構想がようやく動き出すのは、明治末期の1911(明治44)年のこと。

のちに東武鉄道の社長となる根津嘉一郎や小野金六といった甲州出身の実業家によって富士身延鉄道が設立され、既存の馬車鉄道を買収して1913(大正2)年、富士〜大宮町(現・富士宮)駅間が開業しました。

その後、富士川沿いの険しい地形に鉄道を敷く工事は難航を極めましたが、1920(大正9)年に身延に延伸。

身延駅に停車する51系。隣には165系の「急行みのぶ」(1975年5月撮影)

1926(大正15)年からは早くも電化工事が始まり、1928(昭和3)年、富士〜大宮町駅の開業から16年近くかけて、富士〜甲府駅間が全通しました。

当時の地方私鉄としては画期的な全線電化路線で、富士〜甲府駅間の所要時間は2時間43分。現在の普通列車でも最速2時間31分ですから、そのスピードがわかります。その後、富士身延鉄道は1938(昭和13)年に国に借り上げられ、1941(昭和16)年に正式に買収されて国鉄身延線としていまに至ります。