3日で捕虜3.6万人!? イギリス戦車部隊がスゴかった作戦とは? イタリアはなぜコテンパンにされた?

ドイツ側として参戦し突如エジプトに侵攻してきたイタリアに対し、イギリス軍は劣勢を挽回すべく反攻作戦を行いました。この「コンパス作戦」では、イギリス戦車部隊が実力を発揮します。

イタリア軍が突如エジプトへ侵攻

 第二次世界大戦中の1940年12月8日から1941年2月9日かけて、ドイツ側に立って参戦しエジプトに侵攻してきたイタリアに対し、イギリス軍は反攻作戦を行いました。この作戦はイギリスで「コンパス作戦」と呼ばれます。

 15万の兵力で攻めてきたイタリア軍に対し、侵攻当初、4万人に満たない兵力だったイギリス軍は、これを押し返すどころか、勢力圏だったリビアまで逆侵攻するという結果となりました。その進撃の一助となったのが、この作戦以前のフランスでの戦いで、ドイツ軍に苦戦を続けてきた戦車部隊でした。

 エジプトやリビアが戦場になった北アフリカ戦線では、当時、地中海に面した沿岸部こそイタリアやイギリスの整備した道路が存在しましたが、少しでも南に進むと砂漠などの乾燥地帯が広がっていました。

 そのため、南部で大規模な部隊を展開することはほぼ不可能で、陸上の部隊は輸送船や補給車両の支援を受けやすい地中海に近いインフラの整っている地域で戦闘を行っていました。さらに、木や川といった遮蔽物の少ない乾燥地帯ということもあり、戦車や装甲車など車両を主体とした部隊を先頭にし、相手の防衛線に穴を開ける戦法がかなり効果的に働きました。

 コンパス作戦は北アフリカ戦線での、戦車の有効性を示した最初の戦いでもあります。準備不足のため侵攻限界に達し、エジプトのシディ・バラニで援軍や補給を待つイタリア軍部隊に対し、イギリス軍が急襲する形で始まりました。

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戦車の機動力でイタリア軍を圧倒する

 攻撃の先鋒を担当することとなったのは、イタリアのエジプト侵攻後に増員された王立第7戦車連隊で、当時は重装甲で知られたマチルダ2歩兵戦車を50両もっていました。同戦車は、フランスを舞台にドイツ軍を相手にした「アラスの戦い」で一定の戦果は挙げたものの、8.8cm対空砲の水平射撃や、ドイツ空軍の航空支援などにより、結局多くの車両が撃破されてしまい、戦場に大きな影響を与えることはできませんでした。

 しかし、イタリア相手の今回の戦いでは、8.8cm対空砲のような有力な対戦車兵器や、同戦車を撃破可能な戦車を保有していなかったイタリア軍を圧倒する形となりました。戦闘はまず王立第7戦車連隊のマチルダ2がその重装甲を活かし、イタリア軍のこもる陣地を攻撃し、無力化。後続であるインド第4師団の歩兵部隊が制圧を担当することになりました。

 この戦闘では、イタリア軍の準備不足により、塹壕がほとんど掘られていなかったことも有利に働きました。マチルダ2は重装甲ではありましたが、歩兵を直接支援するために作られた歩兵戦車であるということで、機動力に劣っていました。そのため、ちょっとした遮蔽物でも足止めにはなりましたが、この作戦ではそれがありませんでした。加えて、作戦区域の制空権に関してもイギリス空軍が奪還に成功しており、同軍戦車部隊は上空から狙われる心配もなく作戦行動が取れました。

 さらに、マチルダ2と違い、装甲は薄いものの機動力に優れる車両でMk.I、Mk.II、Mk.III、Mk.IVといった巡航戦車も威力を発揮しました。巡航戦車を中心に運用していた第6王立戦車連隊では、撤退を始めたイタリア軍の追撃を開始しました。その機動力の高さに、度重なる攻撃を受け、車両の数が少なかったイタリア軍は対抗することも逃げ切ることもできず海沿いに包囲され、いたるところで集団での降伏が始まります。

 巡航戦車に関しても、フランスでは守勢に回ったこともあり、満足な戦果をあげていませんでしたが、この戦場では、敵の側面や背後を突くなど真価を発揮することになりました。また、この作戦以降、ドイツ軍の機甲部隊が北アフリカの戦場に現れても、一部の巡航戦車はII戦車、III号戦車が相手ならば、問題なく戦うことができました。

 結局、イギリス軍は作戦開始からわずか3日で計3万6000人以上のイタリア捕虜を確保し、無勢が多勢を圧倒することになります。その後、イギリス軍はイタリアの勢力圏であるリビアの領内に侵攻し、1941年1月22日には、リビアの要所でもあるトブルク要塞までも陥落させ、2月9日の作戦終了時点で、イギリス軍はリビアの中央部まで軍を進める結果となりました。この戦いで、イタリア軍は約13万名の将兵を失い、砲845門と戦車350両を喪失。自国だけでは戦線を支えきれなくなり、ドイツ軍に支援を頼むこととなります。