最強戦闘機ながら最後は特攻機にも「疾風」現存唯一機の“ウワサ”吹き飛ぶ 保存状態ヨシ!

太平洋戦争後半に旧陸軍が使用した四式戦闘機「疾風」。3000機以上造られた同機も、現在残る機体は鹿児島県で展示されるただ1機だけだそう。それだけのレア機、今年3月に調査報告書が出て、良好な保存状態であることが確認されました。

大戦末期に完成した「疾風」

 鹿児島県の薩摩半島南部にある南九州市には、日本のみならず世界でも唯一、現存するレア機が保存・展示されています。機体の名は四式戦闘機「疾風」。同機は、太平洋戦争中に旧日本陸軍が開発した戦闘機ですが、なぜ、そのような機体があるのか、その経緯をひも解くと、この地にかつてあった飛行場と、機体がたどった半生を振り返ることができました。

「疾風」の開発を振り返るならば、まず前型の「隼」に触れる必要があるでしょう。1941(昭和16)年12月から始まった太平洋戦争において、旧日本陸軍航空隊の主力戦闘機として用いられたのが、中島飛行機が開発した一式戦闘機「隼」でした。

 計画名称「キ43」の名でも呼ばれた「隼」は、三菱重工が開発した海軍の零式艦上戦闘機(零戦)に並び称される戦中の名機です。武装は機首に搭載した7.7mm機関銃2挺(後に12.7mm機関砲2門にまで強化)のみと軽武装ながら、1000馬力級エンジンを搭載したことで最高速度515km/h(高度6000m)を発揮し、蝶型フラップ(空戦フラップ)の採用などにより格闘性に優れていたことで、中国やビルマ戦線で勇戦しました。

 しかし太平洋戦争が始まったことにより、軽戦(軽戦闘機)の「隼」より強力な武装を有しながら高速で、さらに長い航続距離を持った2000馬力級エンジン搭載の重戦(重戦闘機)の開発計画が立ち上がります。そのような陸軍の要求に応えるべく中島飛行機が開発したのが計画名称「キ84」試作戦闘機でした。

 同機は1943(昭和18)年3月にようやく完成し、翌1944(昭和19)年4月に四式戦闘機「疾風」として制式採用されます。

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これぞ「決戦機」 最強戦闘機の実力

「疾風」は、「隼」ゆずりの格闘性能を受け継ぎながらも試作段階で最高速度660km/h(高度6000m)を出しており、その高性能ぶりから「大東亜決戦機」と呼ばれるほど大きな期待が寄せられました。

 また武装も、対戦闘機用の「甲型」では、機首に12.7mm機関砲を2門、翼内に20mm機関砲2門を搭載していたのに対し、対爆撃機用の「乙型」では機首に20mm機関砲を2門、翼内に20mm機関砲2門と火力が向上しており、一式戦闘機「隼」とは段違いの強力な打撃力を有する戦闘機に仕上がっていました。

「疾風」は生産開始から1945(昭和20)年8月終戦までのわずか1年半で3577機が完成しますが、これは約1万機生産された「零戦」、約5800機が生産された「隼」に次ぐ、日本機としては3番目の生産機数となっています。

 四式戦闘機「疾風」は、1944(昭和19)年初旬以降、フィリピンや中国、ビルマ戦線などに送られ、アメリカ陸軍および海軍機と交戦して大きな戦果を挙げます。これにより、アメリカ軍側も最強の日本戦闘機として認識するほどでした。また、日本本土に押し寄せるB-29爆撃機への迎撃でも多用されています。

 しかし、戦局の悪化にともない1944(昭和19)年後半以降は「疾風」も特攻機として使われるようになります。1945(昭和20)年の沖縄戦では鹿児島県の知覧基地などから多数が出撃、最終的に「疾風」を駆って特攻隊員として空に散ったパイロットは122名を数えました。