「オリエント急行」の超豪華客車がなぜ箱根に? 今でも“乗れる”鉄道界の伝説

1883年に運行を開始した欧州の「オリエント急行」は、豪華列車で最も歴史と格式がある列車でしょう。そこに組み込まれた客車「プルマン No.4158 DE」が、日本の「箱根ラリック美術館」で保存されています。なぜでしょうか。

日本でも「プルマン式」というが…

 欧州の豪華列車として名高い「オリエント急行」。その中で「プルマン車」として活躍した「No.4158 DE」が、日本の「箱根ラリック美術館」で保存されていることをご存じでしょうか。

「プルマン車」とは、19世紀アメリカの発明家G・プルマンにちなみます。プルマンが最初に考案したのは寝台車でした。それまでは固い座席で一晩を過ごしていたので、寝台車の登場は画期的であり、そのためアメリカでは寝台車を「プルマン」と称するほどです。日本でも、向かい合わせ座席をつなげて寝台にする構造の開放形A寝台車や、夜行としても走る観光列車「WEST EXPRESS 銀河」のファーストシートを「プルマン式」と称することがあります。

 1867年、「プルマン車」の特許権を得たプルマンは、「より楽しい旅」を目指す豪華車両保有会社を設立。食堂車、テーブル付きのソファを備え飲料などを提供する客車「パーラーカー」などの車両を保有し、鉄道会社に「車両と車内サービス一式」を提供したのです。その結果、欧州では「パーラーカー」を「プルマン車」と呼ぶようになりました。

 日本で保存されている「No.4158 DE」は、「テーブル付きのソファを備え飲料などを提供する」客車なので「プルマン車」とされ、車体側面には「PULLMAN 1ERE CLASS」と書かれています。日本流にいうなら「食堂車兼サロンカー」といったところでしょう。

 なお、「オリエント急行」自体はプルマンのビジネスモデルを模範にして設立された「ワゴン・リ」社によって運営され、1883(明治16)年に運行開始したので、G・プルマンの運営ではありません。なお現在は、ベルモンド社とワゴン・リ社が別々に運行しています。

「オリエント急行」の運行開始当時、欧州は1か国の幹線ごとに別会社での運行が行われている状態でした。数か国を直通するけれど、1社がサービスを提供する「オリエント急行」は、利便性もサービスレベルも非常に高く、要人も多く利用したのです。小説家アガサ・クリスティや女優マレーネ・ディードリッヒなどの著名人も乗車したと伝えられています。

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「プルマン車」はどのくらい豪華だったか

「No.4158 DE」が製造されたのは1929(昭和4)年のこと。移動手段として、鉄道がまだ航空機に脅かされていなかったころです。日本で同世代なのは、大井川鐡道で活躍するC10形蒸気機関車(1930年製造)ですから、かなりの古参客車といえそうです。「No.4158 DE」は製造後、パリ~ヴァンティミーリア間を結ぶ「コート・ダジュール急行」として活躍し、その後1982(昭和57)年に復活した「オリエント急行」でも使われ、2001(平成13)年まで現役でした。

「No.4158 DE」の座席定員は、4人用個室2室を含み28名。寝台特急「トワイライトエクスプレス」で使われていたラウンジカー・オハ25形(定員24名)より少ないですが、「No.4158 DE」の全長は22.2mで日本の20m車両より長いこともあり、ゆったりしています。座り心地も極上なソファは、クッションに通気性をよくするための「藁」が使われているほか、鋼製の車体でありながら、車内には木材(マホガニー)を使用しており、豪奢なつくりです。

 テーブルは移動可能ですが、清掃時は側壁に固定できました。側窓は一部がハンドルを回すと下降するようになっており、別れを惜しむ見送り客にも配慮されていました。暖房は温水暖房ですが、温水ボイラーは石炭式です。なお「オリエント急行」はノスタルジーを大切にしているので、現代の車両でも変わっていないようです。

 そのような世界的な豪華車両が、箱根ラリック美術館に展示保存されている理由は、車内の装飾にあります。世界的なガラス工芸士ルネ・ラリックが手がけた156枚のガラスパネルが飾られているのです。

 ガラスパネルを詳しく見てみます。人物像と葡萄をかたどったパネルが3枚1組で、人物像は男性2種類、女性6種類。葡萄は3種類が左右対称となっています。パネルは、型の中にガラス素材を流す「型押し」という方法で作られ、表面には白く濁らせる「フロスト加工」が、裏面には水銀を縫って光を反射させる「鏡面加工」がなされています。

 天井のランプシェードもラリックの作品ですが、個室内のパネル「花束」は、ラリックの娘スザンヌの作品で、作風が異なります。