半世紀以上の歴史があるホノルルマラソンは、参加者を歓迎するハワイ特有の”アロハスピ
リット”に満ちたハートフルな大会として、どなたでも参加しやすく、誰でも楽しんでいた
だける大会を目指しています。時間制限がないことや10kmの距離も用意されていることな
どから、ランニング初心者でも参加しやすく、障がいのある方もご参加いただけます。
本記事では、病気により車いすでの生活を送る母と、知的障がいのある弟と過ごす岸田奈
美さん一家がホノルルマラソンに挑戦した様子をお届けします。

岸田奈美
作家。ベンチャー企業で10年にわたり広報部長を務めたのち、独立。
ブログサービス「note」に綴ったエッセイが反響をよび書籍やテレビドラマに。Forbes「30 UNDER 30 JAPAN 2020」「30 UNDER 30 Asia 2021」選出。
著書に「家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった」(小学館)、「もうあかんわ日記」(ライツ社)、「飽きっぽいから、愛っぽい」(講談社)など。
X : @namikishida
note : https://note.kishidanami.com/

マラソンが、イヤでイヤでたまらなかった。

学校のマラソン大会は、どうやってサボるかを、必死の形相で考えていた。担任の目をか
いくぐり、近道をひた走る“ワープ”をしたこともある。

フェンスの下、生け垣の中を、這いずる羽目になったとて、意地でも走りたくなかった。

その、わたしが!
ホノルルマラソンを!
走ることになるなんて!

しかも、家族と一緒に。

ことの始まりは、15年前、病室で。

「ホノルルマラソンって、車いすでも走ってええねんて!」

ベッドに横たわる母が言った。

大動脈解離という病気で、急死に一生をゲットしたものの、二度と歩くことができなくな
った。その頃の母は、死ぬことばかり考えていた。

寝耳に水ならぬ海越えてハワイ。

何事かと思いきや、どうやら、リハビリ仲間に教わったらしい。車いすでハワイをご機嫌
に走ってきたという姿は、お先真っ暗な母にさす一閃の光だった。

「マラソン、好きやっけ?」

「無理無理無理の、かたつむり」

マラソン嫌いは遺伝である。

「でもハワイなら、走れる気がする」

ハワイ好きも遺伝である。

きついリハビリに息をきらし、自宅のバリアフリー化で貯金もきらした母にとって、まだ
遠い夢の話だった。だが、うちの家訓に「いつかホノルルマラソンを走る」がガッツリと
刻まれた瞬間でもあった。家訓とは。

月日は流れて、2023年。

母は、五回目の手術を終えた。病室にて痛恨の年越しをすることになってしまったが、元
気で家へ戻ってきてくれた。

元気の秘密は、お察しの通り。

無事に手術を終えたら、ホノルルマラソンにエントリーしよう、と決めていたのだ。

「フルはちょっと……」

ということで、10kmラン&ウォークになった。

母の名前を書くと

「ひとりはちょっと……」

ということで、わたしも走ることになった。

走ることになってしまった。まんまとしてやられた。聞いてない。家訓に襲いかかられて
いる。

わたしの名前を書きながら、ふと思う。

弟はどうすりゃいいんだ?

まさかダウン症の弟をひとりホテルへ置き去りにするわけにもいかない。なしくずしに、
弟も走ることになった。走ることになってしまった。

岸田一家、ホノルルマラソン珍道中が確定した。
オカンのためなら、エンヤコラ。

秋ごろから、母とわたしは、なんとなく練習をはじめた。

といっても、近所のまわり4キロぐらいをちょっと小走りしてみるぐらいだ。なんとかや
れそうな気配はあった。

ところで。

「良太(弟)が走ってるとこ、見たことある……?」

「ない」

そう。弟は走らない。本当に走らない。マイペースを絵に描いて判も押したような男で、
どんな場所でも、どんな時でも、一挙手一投足、のっそりと動く。たまに踊る。

歩くときは、わたしたちの後ろにいる。
決して、横に並ばない。一定の距離を保ったまま、ついてくる。

東京オリンピックの聖火ランナーに母と選ばれたときさえ、走らなかった。

堂々と遅い。それが、わが弟。
いやな予感がする。

何度か誘ってみたけど、弟は練習にも加わらなかった。

12月。
岸田一家は、ハワイへ飛んだ。

飛行機が、朝を迎えにいく瞬間が好きだ。

母が歩けなくなり、車いすでの生活がはじまった時は、飛行機で海外へ行くなんて考えら
れなかった。

でも今は、なんの心配もない。わたしの隣で、信じられないほど余裕の母は、グーグー眠
っている。

JALの機内には、専用の小さな車いすがある。照明が落ちて、真っ暗になってしまってか
らも、客室乗務員さんが

「お手洗いのときはいつでもお声がけくださいね」

と言ってくれた。あんなにコンパクトなお手洗いのスペースでどうやって……と最初は思
ったけど、車いすごとスッと入ることができて、母とびっくりした。

お手洗いやスロープなど、バリアフリーの設備がそろっていても、どういう風にお手伝い
をするのが心地よいか、客室乗務員さんや空港係員スタッフさんがいつも尋ねてくれる。

まだ知らない異国への不安な旅を重ねるごとに、安心に変わっていく。

「なんだ、行けるじゃん」

ホッとする。JALのマークを見かけるたびに、頼もしい旅のおともを見つけたような気持
ちになる。

ハワイに到着した。

この世にはハワイに到着した時にしか味わえない種類の嬉しさってのがあると思う。

すぐさま海に飛び込んで、でっかいステーキを食べ、誰かれ構わずアロハを振りまきたい
ところだけど。

今回は、マラソンのためのハワイだ。

マラソンEXPOへ、ゼッケンを受け取りにきた。
あー、泳ぎたい。

いろいろな出店の中、WHILLの電動車いすの体験コーナーがあった。

「これはしるわ」

弟がつぶやいた。足で走らんくてもええんちゃうかという、一抹の望みが透けて見えた。
わたしもそうしたい。

ああ、本当に走るんだなあ、というワクワクと。
ああ、本当に走るんかなあ、というバクバクが。

一緒くたになって押し寄せて、前日は深く眠れなかった。

12月10日。

新しい朝が来た。
希望の朝だ。いや絶望の朝かもしれない。
これから、どうなってしまうんだ。

ただひとり爆睡した弟、やる気はじゅうぶん。
どこまででも走っていけそうな、軽やかな足取り。

惜しむらくは、彼は10キロという単位をよく理解できていないことである。

まだ朝の4時なのに、アラモアナ公園前は、ランナーでいっぱいだ。

そわそわしながらスタートを待っていると。

「わーっ、岸田さんですよね!いつも読んでますっ!」

声をかけられた。ありがたいことに何人も。みんなテンションが高い。嬉しかったけど、
途端に緊張が大きくなる。

こりゃ、ちゃんと、走らんと。
誰に見られてるか、わかんないぞ。

5時ちょうど、スタートの花火があがった。
同時に、むちゃくちゃ渋滞した。マラソンで渋滞って、あるんだ……。

人が多くて走れない。とりあえず写真を撮ってみた。

走ってもないのに、岸田一家はやりきった表情をしている。

ちょっとずつ前へ進み、5時37分、スタートラインを切った。

「おっ」

走っている。弟が、走っている。
やったー!よかったー!
張り詰めていた緊張がブワッと解けた。

あたりはまだ暗い。
夜明けを迎えに行くように走るのだ。飛行機みたいに。

さあ、行くぞ!
岸田一家、ファイヤー!

「……あれっ」

弟の姿が消えた。

座って、休んでいた。
まだ1キロも走ってないのに。

「こらこらこらこら!」

走って、引き返した。
ただでさえしんどいマラソンで、なぜにわたしは引き返さねばならんのか。

弟を引き連れて、走りなおす。
しかし。

弟ははるか後方で、座り込んでしまう。

「良太、大丈夫―?」

母が叫ぶ。

弟が走った。極端に走った。

だめだ。
マラソンを短距離走かなんかと、勘違いしてやがる。

案の定、すぐにバテて、また動かなくなる。

わたしは、頭を抱えたくなった。

ハワイまで来て、走らないやつがいるなんて。いや、彼ならやりかねないけど、それでも
、みんな走ってるんだから、走ると思っていた。

その時、反対側の道路から、すごい歓声が聞こえた。

なんと、トップランナーたちがすでに折り返してきたのだ。あまりの速さに目を疑った。
風のように走り去っていった。

わたしたちはと言えば。

参加者3万人中、すでに3万人目。
ドンケツのビリだ。

途端に、怖くなった。恥ずかしくなった。

どうしよう。ゴールできないかもしれない。
せっかく、ハワイまできたのに。
わたしたちのこと、応援してくれる人もいるのに。

このまま、のろのろ歩くなんて。

「良太、すごーい!かっこいい!」

母が手をメガホンのようにして、弟に声援を送っている。弟はまんざらでもなさそうに立
ち上がった。

まさか……。

「おだてよう!それしかない!」

褒められるのが大好きな弟のことを、さすが母はよくわかっている。でも本当にそれで、
なんとかなるんだろうか。不安でしかない。

空が白み始めてきた。

夜が明けてしまった。

さっきまでの歓声も音楽も、もう聞こえない。

止まったり、歩いたりして、やっと3キロ地点にたどり着いた。

ホノルルマラソンは、沿道の応援がすばらしいと聞いていたけど、誰もいない。とても静
かで、とても悲しかった。わたしたちは遅すぎたのだ。

その時、遠くから音楽が聞こえた。

給水所のボランティアさんたちが、大歓声で迎えてくれた。

待っててくれたんだ!

「ガンバレー!」「You can do it!」と、日本語も英語もごちゃ混ぜになった声援を、紙テ
ープみたいにポンポン投げてくれる。背中を叩いてくれる。

落ち込んでいた気分が一気に上向いた。夜明けより、本当の夜明けみたいだった。

「わっ」

母が驚いた。なにかと思えば、弟が母より前を歩いていた。
28年目にして、初めて見たフォーメーションだ。

他人からすれば当然で、我が家からすれば奇跡が起きた。

これは、いけるかもしれない。

スタートから2時間半が経過。
歩いて、歩いて、4キロ地点。

大半の人たちはもうとっくにゴールしている。

ついに交通規制が解除されてしまった。
車が道路を走り出すので、わたしたちは歩道に上がる。

まめに立ち止まり、地図を確認しながら、進んでいく。

足が痛い、と弟が座り込んだ。

こんな距離を歩くのはすでに初めてのこと。
体にもガタがくる。

車輪をこぐ母の手も、固いマメができはじめた。

もんで、さすって、なんとかかんとか、だましだまし行くことにする。

5キロ地点。半分まできた。
思わず、笑顔がこぼれる。

「やったー!おわり!」

弟が両手を振りあげた。

「まだ終わりちゃうで」

諭すと胸が痛んだが、正直、もう終わってしまうだろうなと思った。最初の絶望感に比べ
たら、折り返し地点まで来れたというだけで、途方もない安堵感がある。

ここからはもう、どこでリタイアしてもおかしくない。

とりあえず、行けるところまで。

歩いて、歩いて。

押して、歩いて。

止まって、濡らして。

とにかく歩いた。一歩でも前へ。
もう動けなくなるまで、少しでも前へ。

何時間も前にゴールして、メダルを首からぶら下げた人たちと、何度もすれ違った。がん
ばれ、がんばれ、と応援してもらった。

アッサリとした爽やかさに、心底救われていた。

気がつけば、怖さとか、恥ずかしさみたいなものは、わたしの中から消えて失くなってい
た。足の痛みでそれどころちゃうのかもしれないけど。

普段からわたしは、どれだけ他人の目を気にしていたんだろう。

どんなに遅くて、最後尾でも。
何度も止まりながら、歩いていても。

弟は堂々としている。

「あかん、良太のこと見れへん」

母が言った。涙ぐんでいた。

「すごいわ。あの子、信じられへんぐらい、めっちゃがんばってる。わたしもがんばる」

弟が見せる奇跡でマイペースなド根性に感激し、涙をこらえながら、母は車いすをこいで
いた。

ごめんな、ごめんな。わたしは心の中で謝る。恥ずかしいとか、そんなこと、全然なかっ
た。今はなんと誇らしいことか。

弟には、弟なりに、走るよりもずっと大切なことがある。ここがハワイでも。見られてい
ても。そんなことはなにも関係なくて。

走らなくてもええんや。前に進んだらええんや。
わたしはこれから先、思い込みやプレッシャーに押しつぶされそうになったら、何度も思
い出すと思う。この背中を。

スタートから4時間40分。

岸田一家、ホノルルマラソン10kmを完走。ってか、完歩。どっちでもええ。そんなもんは
、どっちでも。

ゴールでメダルをかけてもらった。

参加賞という響きのものが、これほどありがたく思ったのは初めてだった。弟のありえな
いがんばりに、母もわたしも、歩かせていたはずが歩かされていた。

これから先、いろいろなことがあるはずだ。つらいことも、くじけそうなことも、家族がば
らばらになることだって。

どんな準備をしていたって、叶わない局面もきっと待ってる。

「でも、まあ、歩けたもんなー」

そういうときに放つ、岸田家の家訓ができた。家訓ってそういうもんじゃないけど、細か
いことはよい。前に進んだ者勝ちだ。

全てのことを「でも、まあ、歩けたもんなー」で乗り越えてゆきたい。そういう大雑把
な希望を、わたしたちはハワイで、手に入れたのだ。