もともと「核爆撃のお供」!? ジェット空中給油機KC-135 ボーイングの一大勢力にのし上がるまで

今から70年ほど前の1956年8月31日、初のジェット空中給油機KC-135が初飛行しました。同機はその後、傑作軍用機へと昇華し、多くの派生型も作られるまでに。同機が生まれた経緯と足跡を振り返ります。

ジェット爆撃機とタッグ組むために誕生

 空中給油機の代表機種といえるボーイングKC-135「ストラトタンカー」。ジェットエンジン搭載の空中給油機として世界最多の生産数(732機)を誇る同機は、1956年8月31日に初飛行しました。

 すでに後継となるKC-46の導入も進められていますが、まだ当分のあいだは現役で飛び続ける予定です。今月で初飛行以来69年を迎える傑作機KC-135 の足跡を改めてたどってみましょう。

 アメリカ空軍は1950年代、核戦力の柱として戦略爆撃機と空中給油機をセットで配備していました。大きくて重い核爆弾を搭載した爆撃機は、燃料を満載せずに離陸し、空中給油によって爆撃目標への航続力を確保する方法を採っていたからです。主力となる戦略爆撃機はB-47やB-52の配備で完全なジェット化を果たしましたが、空中給油機はレシプロエンジンを装備したプロペラ駆動のKB-50やKC-97でした。

 プロペラ機とジェット機では速度性能が大きく異なるため、空中給油を行う場合に大きな足かせとなっていました。さらに、レシプロエンジンとジェットエンジンでは燃料も異なります。そのため、KB-50やKC-97は自機用の航空ガソリンとジェット爆撃機向けのジェット燃料という2種類の燃料を搭載し、別々に管理しなければならないという不便さがありました。

 そのため当時、戦略空軍司令官であったカーチス・ルメイ将軍が強力に推進したのが空中給油機の全ジェット化でした。

 アメリカ空軍が出した新型空中給油機の提案要求に応じたのはロッキードとボーイングの2社でした。ロッキード案のL-193は、イギリスのVC-10旅客機のようにエンジン4基を胴体後部に装備したリアエンジン形式の新型機で、見た目こそ斬新でしたが新たな開発を必要としました。

 対するボーイング案は、ジェット旅客機の実証機としてすでに完成していた367-80をベースにしたものでした。結果、新たな空中給油機として選ばれたのはロッキードのL-193でしたが、空中給油機のジェット化を急いでいたアメリカ空軍は、つなぎとしてボーイング案をKC-135として発注したのです。

 ちなみに、ボーイングではそれとは別に、367-80の胴体を4インチ(約10cm)拡大して民間仕様のボーイング707旅客機を開発しました。KC-135とボーイング707が瓜二つに見えるのはこのためです。

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爆撃機を飛ばすため、時にはスッカラカンにも

 いうなれば中継ぎ採用といった体のKC-135でしたが、配備と戦力化が順調に進んだため、結局、本命であったロッキードのL-193は発注されることなく終わりました。

 しかも、KC-135を基に要人輸送機型、電子情報収集機、気象観測機、空中指揮機など多数の派生型も生産されたため、シリーズ合計で800機を超えており、大型ジェット軍用機としては異例の多さを誇っています。最盛期には毎年100機のC-135シリーズがボーイングで生産されました。

 KC-135の配備が始まった1957年当時は、米ソ間の緊張がとても高まっていた時期でした。そのため、アメリカ空軍は、ソ連(現ロシア)から先制攻撃を受けた場合でも核攻撃力を確実に維持するために、B-52爆撃機の一部をソ連領土に近い空域に常に貼り付けておく、空中待機プログラムと呼ばれる作戦を行っていました。

 こうしたミッションゆえに、ジェット空中給油機は必要不可欠な装備だったのですが、そのような中、1966年にスペインで核爆弾搭載のB-52とKC-135が空中衝突して墜落する事故が発生します。

 弾頭に備えられた安全装置により核爆発こそ起きませんでしたが、墜落地点の放射能汚染は環境問題を引き起こしました。そのため、この事故を受けてB-52の空中待機は中止されます。しかし、当時は米ソ間の核戦争が現実味を帯びていたことから、想定されていたミッションの中には、B-52 とともに離陸したKC-135が搭載燃料のほぼ全てをB-52へ給油し、自機は不時着もしくは洋上に不時着水する、というものまであったそうです。

 幸いそのようなミッションが実際に行われることはありませんでしたが、乗員たちはKC-135で安全に不時着もしくは不時着水できるとは思っていなかったと証言しています。