華々しいスペックやデザインの裏で見逃しがちな話
1970年代のスーパーカーブームで日本の少年には大ウケ、平べったいボディに空気を切り裂くがごとき極端なウェッジ・シェイプ、リトラクタブルライトにシザースドア(当時は全部引っくるめて「ガルウイング」と言っていたような?)。
「やっぱスーパースポーツとはこうだよねぇ?」と思わせるカッコよさにあふれ、視界が悪くて実用性がないことなどどうでも良かった…何しろ欲しくたってほとんどの人は乗れません!…ランボルギーニ カウンタック。
1990年まで生産されたご長寿車だったので案外新しく、その後のランボルギーニ車へ独特なフォルムが受け継がれただけあって今でも古さを感じさせませんが、メーカーのランボルギーニにとってはけっこう大変な時期に生まれ、長らく看板車種であり続けました。
今回はスーパーカーとしてどうこうというより、カウンタックが生まれた背景や、当時のランボルギーニがどういう状況にあって、カウンタックをロングセラーにしたかなど、そのへんな話をしてみましょう。
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案外商売にならないな?と短命で終わりかけたランボルギーニ
情熱とは無縁なアウトモービリ・ランボルギーニ創業史
ランボルギーニといえば跳ね馬のフェラーリに対して猛牛のエンブレム、その昔、創業者のフェルッチオ・ランボルギーニが所有していたフェラーリの部品に自社(ランボルギーニ・トラットーリ)トラクターの部品が使われている事を知り、激昂。
抗議のためにマラネッロのフェラーリ本社へ押しかけたものの、門前払いを受けた悔しさから「いつかフェラーリを見返してやる!」とばかり、スーパーカーを作るアウトモービリ・ランボルギーニを設立した…という伝説が残るものの、実は全部ウソ。
実際のフェルッチオ・ランボルギーニはトラクターだけでなくボイラーや、ヘリコプター(これは成功しなかった)も作って大儲けしようという純然たるビジネスマンであり、クルマの運転にゃちょいと自信があったのは事実ですが、情熱とは対極的な人物。
フェルッチオとエンツォ・フェラーリ(フェラーリ創業者)の交友も後年のパーティで偶然会った程度らしく、要するにランボルギーニ車を宣伝するため、あるコトないコト吹いて回ったというのが真相だったようです。
ケチで堅実がゆえに、危うくミウラすら売らずに終わるとこだった
後にジャンパオロ・ダラーラやマルチェロ・ガンディーニなどとともに、カウンタックが開発する上で大きな役割を果たしたエンジニア、パオロ・スタンツァーニが、そのへん面白いエピソードを残しています。
ランボルギーニへの入社初日にフェルッチオに付き合わされたスタンツァーニですが、ピレリに寄ったかと思えば大声でまくし立てて営業担当をキリキリ舞いさせてタイヤの納入価格を値切りまくり、帰りも2人なのにミネラルウォーターを1本しか買ってくれなかったと。
よく言えば無駄遣いしない倹約家、ハッキリ言ってしまえばケチであるがゆえに財を成したフェルッチオですから、スーパーカーも儲けるためであり、フェラーリはただの商売ガタキ、金にもならないレースなどもってのほか…
そのため、ランボルギーニ初の市販車、350GTがソコソコ売れたとはいえ、案外儲からないと感じたフォルッチォは早々にアウトモービリ・ランボルギーニを畳みかけますが、市販第2号(ミウラ)を開発していた社員の説得で何とか事業の継続を決めるのでした。
当時、華々しくデビューしたかと思えば1台2台作って消えるメーカーなんてザラでしたから、ランボルギーニも危うくそのひとつになりかけたのです。