top_line

「エンタメウィーク」サービス終了のお知らせ

「パラリンピックの父」ルードウィヒ・グットマン博士を知る4つのキーワード

パラサポWEB

対まひ患者によるアーチェリー大会は成功を収め、グットマン博士はこのイベントを毎年の恒例行事にした。翌1949年には車いすバスケットボールが加わり、6チームが参加した。

グットマン博士は、ストーク・マンデビル競技大会がいずれ国際大会になり、オリンピックと同等の大会になる、と見通していたという。その展望どおり、1952年には、オランダからの参加者を迎え130名で開催。この大会以後、「ストーク・マンデビル競技大会」は「国際ストーク・マンデビル競技大会」に改称する。1956年にはグットマン博士の功績が国際オリンピック委員会から認められ、表彰されている。

60年代は、グットマン博士と障がい者のスポーツ、双方にとって転換期となった。

1960年、イギリス、オランダ、ベルギー、イタリア、フランスからなる国際ストーク・マンデビル大会委員会が設立され、グットマン博士が初代会長に就任。同年、「第9回国際ストーク・マンデビル大会」がオリンピックと同じローマで開催された。イギリス以外の地で初めて開催された大会で、この大会こそ、のちの「第1回パラリンピック」だ。

グットマン博士は、1961年に国際対まひ医学協会(現国際脊髄協会)と英国障がい者スポーツ協会(現Activity Alliance)を設立。1964年に東京で開かれた「第2回パラリンピック」の開催にも尽力し、開会式ではスピーチも行った。そして1966年には、当時のイギリスの女王エリザベス2世からナイトの称号を授与された。

広告の後にも続きます

グットマン博士は60年代後半にストーク・マンデビル病院を退職したが、それ以後も情熱が衰えることはなく、国内外の競技大会やイベントに協力。1969年のストーク・マンデビルスタジアム設立に貢献し、1970年代は英国対まひスポーツ協会(現英国車いすスポーツ財団)を立ち上げた。

ストーク・マンデビル病院近くの「National Paralympic Heritage Centre」には、1964年東京パラリンピック関連の展示も。日本人形は同大会の陸上競技で金メダルを獲得した車いすの女子選手に贈られたもの

④「中村裕博士」:門下生が日本の“障がい者スポーツの父”に

グットマン博士が障がい者のスポーツのために奔走していた1960年、イギリスの国立脊髄損傷センターに一人の日本人がやってきた。大分・別府で整形外科医として働いていた中村裕(なかむら・ゆたか)博士(1927~1984)だ。中村博士は、リハビリテーションの研究のためにアメリカとヨーロッパに留学。イギリス滞在中に同センターを訪れ、グットマン博士が取り入れたリハビリテーションと、脊髄損傷の患者が短期間で社会復帰していることに感銘を受けた。このころの日本ではまだ、脊髄損傷の患者は主にベッドで寝て回復を待つのが一般的だったからだ。

中村博士は、グットマン博士と同様、強い信念の持ち主だった。グットマン博士のもとで学んだ中村博士は帰国後、さまざまな“日本初”を実現させている。1961年に大分で「身体障害者体育大会」を開催。1962年に日本から2選手を「第11回国際ストーク・マンデビル競技大会」に派遣。1964年の東京パラリンピックでは、日本選手団の団長を務めた。この年の「身体障害者体育大会」はグットマン博士も視察に訪れている。

その後、障がいのある人たちの就労を支援する社会福祉法人「太陽の家」を創立。さらに、1975年に始まった「フェスピック大会」(現在のアジアパラ競技大会)や1981年から続く「大分国際車いすマラソン大会」を実現するなど、その功績は計り知れない。

中村博士はグットマン博士が亡くなった4年後の1984年に他界。中村博士の遺志を引き継いだ息子の太郎氏は、日本選手団のチームドクターとして2000年シドニー大会と2004年アテネ大会の2回、パラリンピックに帯同した。グットマン博士のレガシーは、中村博士を通じ、日本のパラスポーツに今も脈々と受け継がれている。

大分県別府市の「太陽の家」敷地内にある中村裕氏の銅像。イギリスのストーク・マンデビル病院に留学し、グットマン博士の教えを受けた

※本記事は国際パラリンピック委員会(IPC)WEBサイトを参考にしています。

text by TEAM A
photo by X-1

  • 1
  • 2
 
   

ランキング(スポーツ)

ジャンル