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「パラリンピックの父」ルードウィヒ・グットマン博士を知る4つのキーワード

パラサポWEB

“パラリンピックの父”と呼ばれる人物がいる。障がい者スポーツ大会「国際ストーク・マンデビル競技大会」を創設した、医師のルードウィヒ・グットマン博士(1899~1980)だ。

障がいのあるアスリートによる国際的なスポーツの祭典は、イギリスのいち病院で行われた競技数「1」、参加者数「16」の小さな大会からスタートした。その後、回を重ねるごとに規模が拡大。東京2020パラリンピックでは11,420名にも上る大規模な国際大会となっている。スポーツの力で、障がいのある人たちの未来を照らしたグットマン博士。そんな博士の足跡を4つのキーワードでたどってみた。

①「迫害」:戦禍のドイツを逃れてイギリスへ

グットマン博士は、1899年7月3日、ドイツのトシェク(現ポーランド)で生まれた「ユダヤ人」。1918年にヴロツワフ大学で医学の勉強を始め、1924年に医学博士号を取得。その後1928年まで、大学講師および神経科医の助手を務めた。

当時のドイツでは、ヒトラーが率いるナチス政権により、ユダヤ人排除の動きが強まっていた。そのひとつに「ユダヤ人医師はユダヤ人患者のみを治療できる」という制限があったことから、1937年にグットマン博士はユダヤ系病院の医局長となる。

同年11月、「水晶の夜」と呼ばれる歴史的な事件が発生。ドイツ各地でユダヤ人に対する大規模な迫害が起こり、多くの犠牲者を出した。当然、グットマン博士の病院にも多数の負傷者が担ぎ込まれた。このときグットマン博士は、「病院に運ばれてきた人はどんな患者でも入院させて治療する」と決断し、同胞を助けた。

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多くの同胞を入院させてかくまったことで、グットマン博士は、ゲシュタポ(当時のドイツ秘密警察)に目をつけられ、パスポートを没収されてしまう。だが、運が味方した。ヒトラーの命令で、ポルトガルの独裁者の友人を治療するためにポルトガルへ渡ることとなり、その帰国時に2日間、イギリスに立ち寄ることが許されたのだ。それ以前から難民を保護するイギリスの機関に連絡を取っていたグットマン博士は、この機会に妻と2人の子どもとともにドイツを離れることを決意。1939年3月、一家はイギリスに亡命し、オックスフォードに家を構えた。

②「リハビリテーションとスポーツ」:スポーツで患者を救う

イギリスの軍病院で働き口を得たグットマン博士は、第二次世界大戦中の1943年、戦争で脊髄損傷を負う兵士が増えることを見越したイギリス政府からある要請を受ける。それは、オックスフォードから車で45分ほどのところにあるストーク・マンデビル病院に新設される国立脊髄損傷科(1953年に国立脊髄損傷センターと改名)の所長になることだった。グットマン博士は、「何の干渉も受けずに自分のやり方で患者を治療できること」を条件にこのポストを引き受け、1944年、開設と同時に着任した。

当時、脊髄損傷による対まひ(自分の意志で運動ができない)患者の余命は、ケガを負ってから2年がいいところ。そこで、グットマン博士は患者の余命を延ばすことに挑む決意した。

あるとき、グットマン博士は車いすに乗った患者が自ら考えた球技を楽しむ姿を目の当たりにする。そのイキイキとした姿に、グットマン博士はリハビリテーションにおけるスポーツの重要性に気づく。スポーツは残された体の機能を向上させて回復を早めるだけではなく、自尊心を養い、社会とのつながりまで生み出す可能性があるのだ。この気づきが後に、自身で「最高の考えのひとつ」とまで語ったスポーツを取り入れたリハビリテーションの考案へとつながった。このグットマン博士のリハビリテーションは、多くの患者を短期間で社会復帰させ、余命も大きく延ばすことに成功する。

グットマン博士はこのような言葉を残したといわれる。
「失われたものを数えるな。残されたものを最大限に生かせ」

脊髄損傷科の開設から4年が経った1948年7月29日、グットマン博士は1948年ロンドンオリンピックの開幕日と同じ日に、病院内で『第1回ストーク・マンデビル競技大会』を開催。患者の間で人気があったアーチェリーが実施され、男性14名、女性2名の計16名が参加した。

「第1回ストーク・マンデビル競技大会」が開催されたストーク・マンデビルスタジアム。現在は「ルードヴィヒ・グットマン障がい者スポーツセンター」と名を変え、さまざまなスポーツ大会が行われている

③「情熱と信念」:思い通りにするという強い意志を持って

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