マンガ雑誌と単行本のイメージ(画像:写真AC)

【画像】漫画家視点から見る、「マンガ原稿料」の変遷(5枚)

原稿料だけで家やクルマが買える時代もあった

 2023年11月1日、あるニュースがマンガ業界で話題になりました。「週刊少年ジャンプ」が漫画家に支払う原稿料を開示したのです。

 実は、マンガ業界で原稿料の額面を公表することは、あまりありません。だからこそ、マンガ雑誌を牽引する位置にある週刊少年ジャンプの開示は、多くの人に驚きを与えました。

 公表の場となったのは、他雑誌連載経験者を対象とした連載・掲載説明会の公式サイトで、そこで初連載・初読み切り掲載の新人作家の場合は、モノクロ1ページが1万8,700円(税込)以上、カラー1ページが2万8,050円(税込)以上。デビュー済みの漫画家さんで、他誌での原稿料がそれ以上の場合は、応相談。さらに連載開始時には専属契約金を伴う1年間の専属契約を結ぶことも可能と、詳細な条件が記されていました。

 筆者は出版業界の末席に加わり四半世紀になります。その間に見聞した限りでは、掲載ペースが週刊か月刊でも異なりますが、新人作家であればページあたりモノクロで1万円前後というケースが多かったように記憶しています。

 実際、SNS上では他誌で連載している漫画家さんで、自分の原稿料より高いと記している方もいました。

 その一方で、先日、漫画家さんたちが原稿料だけでは、生活費やアシスタント代を賄うことができないと嘆くニュースも話題になりました。そこで本記事では、過去の文献や関係者の発言から、原稿料や単行本の印税といった漫画家さんの「収益構造」の変遷について考えてみたいと思います。

 現在、漫画家さんの主な収入源は、雑誌連載時の原稿料と単行本化時の印税です。しかし連載漫画の単行本化が一般化する1960年代くらいまでは、漫画家さんの収入はほぼ原稿料のみでした。

 石ノ森章太郎先生は『トキワ荘の青春―ぼくらの漫画修行時代』のなかで、1954年に始まったデビュー作『二級天使』では「原稿料は、一枚七五〇円だった」と記しています。しかし、これは当時としても安かったようで、1956年に活躍の場を講談社の「少女クラブ」に移した際、1000円にアップしたそうです。

 1950年代の大卒の初任給が1万円前後と言われていますから、およそその10分の1にあたります。また当時、漫画雑誌は月刊がメインで、現在ほど緻密な描き込みも少なかったため、アシスタントさんなしで描くことも可能でした。

 速筆で知られる石ノ森章太郎先生は、一晩に20枚描くこともあったそうですから、1日で新人会社員の2倍の収入をあげることもできたのです。当時、大手出版社で連載していた漫画家さんは原稿料だけで家や自家用車を買えるほどの収入があったと言われていますが、それも納得できます。

 ところが1960年代から1970年代にかけて、マンガ業界はふたつの大きな転換点を迎えます。そのひとつが週刊少年マンガ誌の誕生です。

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週刊マンガ誌の台頭で「アシスタント」が必須に

 1959年の「週刊少年サンデー」と「週刊少年マガジン」を筆頭に、1963年には「週刊少年キング」が、1968年には「少年ジャンプ」、そして1969年に「少年チャンピオン」が創刊されました。

 これにより1か月あたりのマンガの掲載枚数が大幅に増加します。たとえば月刊誌時代は1話あたり20ページだとすれば、週刊誌では4倍の80ページになったのです。また1960年代は劇画ブームからの流れで、こうした週刊少年マンガ誌にも緻密な描き込みが求められるようになりました。そのため週刊誌で連載する漫画家の多くは、その作業量の増加に対応するため、複数のアシスタントを常駐させるようになっていきます。

 竹熊健太郎さんの『マンガ原稿料はなぜ安いのか』のなかに、1967年に月刊誌でデビューした漫画家さんの原稿料が、1ページ3000円だったと記されています。週刊誌連載の場合はもう少し多いかもしれませんが、1960年代後半の大卒の初任給がおよそ3万円であったことを考えると、1950年代から1960年代にかけて物価とマンガの原稿料は、ほぼ連動して上昇していたといえます。

 アシスタント導入による人件費の増加も、毎月の掲載枚数が増えたことで補填されていたのです。このあたりまでが、漫画家が原稿料だけで暮らしていけた時代といえるでしょうか。



漫画家の佐藤秀峰氏が連載時の原稿料を著書で明かした、『海猿』第1巻(小学館)