乱歩の卓越した筆力が紡ぎ出す島の情景は、この上なく妖しく美しく、そして恐ろしく読者を虜にします。
パノラマ島はもともと人見の妄想から生まれました。
人見は三十路を過ぎても定職に就かず、駄文を書いて生計を立てる三文小説家。やることといえば下宿に寝転がり、自分の理想の楽園を妄想することだけです。
もし菰田の訃報に接しなければ、一生ただの夢で終わってしまったでしょうね。しかし人見は幸か不幸か妄想を実現に移す手段を得、首尾よく菰田に成り代わりパノラマ島の建設に乗り出します。
パノラマとは遮蔽物のない広々した風景、または全景をさす単語。同時に目の錯視を利用し、実際の風景より奥行きや広がりを持たせるトリックを意味します。
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読者は人見・千代子と共にパノラマ島を行脚する過程において、めくるめく夢の世界に誘われます。
裸の人魚が泳ぐ海底トンネルを進み、悠大な水を湛えた峡谷に分け入り、空の彼方に伸びる階段を上り、巨木の枝葉が黄金律のアーチを描く大森林を探検し……。
読者は初上陸した千代子の目を通し、空前絶後の奇観を堪能します。
この描写が非常に巧みで、道中人見が語る別エリアの説明だけでも映像が目に浮かんできました。
とはいえ、実際の面積自体は大したことありません。M県沖に浮かぶ小さな島に、巨大な峡谷や無限に続く階段が存在するのはナンセンス。人見はパノラマの技法を用い、絵や照明と実際の風景を巧みに組み合わせることで、殺風景な小島を楽園に造り替えたのです。
読書の醍醐味が別天地を旅することなら、本作は十二分に願望を叶えてくれます。しかもパノラマ島には大勢の人間が雇われており、彼らエキストラがそれぞれ人魚や白鳥に扮し、主人を楽しませます。
家にいながらにして驚天動地の体験をしたいなら、ぜひ本書を開いてください。
著者浜田 雄介 出版日
人見の苦悩と千代子の葛藤、夫婦の確執に注目
第二に注目してほしいのが人見と千代子の確執。
菰田になりすました人見にとって、千代子は最も身近な危険人物。他の親族は賄賂で口封じできても、夫が別人ではないかと怪しむ千代子の疑惑は日々膨れ上がる一方です。
とはいえ、千代子が単なる邪魔者として描写されてないのが憎い所。なんとなれば人見は千代子に恋し、パノラマ島完成の野望と妻への想いの間で揺れ動くのです。
欲望をとるか願望に殉じるか。
それは人見が殺人者に堕ちるか否かの分岐点でもありました。
千代子を始末したいができない人見と、人見を信じたいが信じきれず、さりとて嫌いになりきれない千代子。
互いに疑念が根差した夫婦の確執が、パノラマ島巡りの時間経過に応じた微妙な心情変化と共に描かれ、思わずのめりこんでしまいます。
妻の手を引き得意げに島を案内する人見と、めくるめく大パノラマに戦慄と陶酔を禁じ得ない千代子の対比は、破滅へのカウントダウンを刻んでいるようでも、あまりに凄惨な夫妻の顛末を示唆しているようでもありました。
人見はギリギリまで千代子をどうするか迷い続けます。千代子も千代子で夫が別人と予期しながら、こんな凄い景色を作り出した人見に感嘆し、惹かれていくのを止められません。
結果的に人見は一線をこえてしまいますが、その瞬間のおぞましいまでの美しさは特筆に値します。江戸川乱歩の(悪)趣味全開、猟奇と耽美の極みの名シーンです。
パノラマ島巡りは人見と千代子の最初で最後のハネムーンだったのかもしれません。
妻の死体を島の土台に埋めた人見の行動は意味深ですね。
楽園の礎にする事で亡き千代子に永遠の命を与え、不滅の存在足らしめようとしたのなら、島巡りは人柱の禊を兼ねた巡礼とも解釈可能です。
ふたりが文字通り血肉を捧げ、島と一体化することこそ計画の総仕上げだったのです。
著者江戸川 乱歩 出版日2015-07-21
『パノラマ島奇談』を読んだ人におすすめの本
江戸川乱歩『パノラマ島奇談』を読んだ人には、カルト漫画家・丸尾末広が描いた漫画版『パノラマ島奇談』をおすすめします。禍々しくも美しいパノラマ島の景観が、点描めいて精緻な描き込みとダイナミックな眺望で表現され、ページをめくる手が止まりません。
原作とは異なり探偵役として明智小五郎が登場するのも嬉しいサプライズでした。
著者丸尾 末広 出版日2008-02-25