トヨタ2000GT(昭和42/1967年5月発売・MF10型)
【昭和の名車・完全版ダイジェスト037】

この連載では、昭和30年~55年(1955年〜1980年)までに発売され、名車と呼ばれるクルマたちを詳細に紹介しよう。その第37回目は、今なお輝きを失わない名車トヨタ2000GT登場だ。(現在販売中のMOOK「昭和の名車・完全版Volume.1」より)

今なお語り継がれる稀代の名車。


当時の最新の技術を惜しみなく注ぎ込む

「トヨタ2000GTの血統を継ぐ3000GT」(スープラ)、「トヨタ2000GTの再来」「トヨタ2000GT以来の6気筒DOHCをしめすDOHC-6のエンブレム」(ソアラ)。いずれもトヨタの高級GTのデビュー時のコピーの一節である。

流れるように美しいスタイリングと最高速220km/h、0→400m加 速15.9秒 の 高 性 能、そして当時としては最高級の豪華な内外装備を身につけた高性能スポーツカー、トヨタ2000GTの魅力は、それを知る人々によって今なお熱っぽく語り継がれているが、当のメーカー自身のトヨタ2000GTに対する思い入れもこのコピーからヒシヒシと伝わってくる。

事実、国産スポーツカーの歴史を語るとき、外すことのできない名車のひとつがトヨタ2000GTであることは誰しも認めるところである。トヨタが市街地走行や高速道路走行も可能な本格的な高性能スポーツカーの開発を決めたのは、昭和38(1963)年5月の第1回日本グランプリの直後のことだったと言われている。

このレースでトヨタは戦略的に取り組み、パブリカでクラス1位から7位を独占するなど3クラスを制覇する活躍を見せるものの、参加できなかったメインレースでのロータス23,フェラーリ250GT、ポルシェ・カレラ2など世界のスポーツカーとの差を見せつけられたのも事実だった。

当時のトヨタは、クラウン、コロナ、パブリカと基本の車種体系が出来上がり、企業全体を象徴するイメージリーダーカーを求める時期にあったということもある。トヨタには、既存の量産車種に手を加えたプリンス自動車のスカイラインGTのような暫定モデルではなく、名実とも独自性を持ち、世界に通ずる高性能モデルを作りたいという、強い意思があった。

実際にトヨタ2000GTの開発に着手したのは翌年の昭和39(1964)年5月で、当時のトヨタは昭和41(1966)年から43年にかけて、カローラ、センチュリー、スプリンター、コロナ・マークIIといったニューモデルを相次いで発売する計画を進めており、生産余力もなかったところから、エンジンのチューニングや試作・生産をヤマハ発動機に委託、トヨタ・ヤマハの共同開発の形をとった。設計やエンジンほかの主要部品の供給はトヨタの担当である。

高性能GTカーの草案をまとめていたトヨタにとって、自身も4輪進出を考えており、2輪でのエンジン開発で実績を上げていたヤマハの存在は大いに頼もしいものだった。

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マイナーチェンジでフェイスリフトするが、


その流麗なフォルムはまったく変わらず

試作1号車の完成は昭和40(1965)年8月で、その年の10月の第12回東京モーターショーに美しい2シーター・ファストバックのトヨタ2000GTプロトタイプが姿を現わしている。

このショーで人気をさらったトヨタ2000GTは、その後も入念な走行テストを繰り返し、昭和41(1966)年5月の第3回日本グランプリではプロトタイプ・レーシングカーのプリンスR380に1位、2位の座を奪われたが、無給油で3位に入賞して注目を浴びた。

同年6月の鈴鹿1000kmレースには2台が出場して総合1位、2位を占めた。さらに10月には谷田部の高速試験場で高速耐久スピードトライアルに挑戦、昼夜ぶっ通しの78時間連続走行で3つの世界新記録と13のクラス別国際新記録を樹立、このクルマの高速耐久性を実証してみせた。

ファンをヤキモキさせたトヨタ2000GTの市販はショーのデビューから約1年半後、昭和42 (1967)年5月から開始された。ロングノーズ&ショートデッキ&ファストバックのボディスタイルはショーに展示されたままだったが、センターロックのワイヤーホイールは市販車ではマグネシウム・ホイールに改められていたほか、細部で多少の変更も行われていた。

エンジンはクラウン用の新エンジン、M型2000をベースにヤマハがチューニングし、 DOHCとした3M型を搭載した。3M型は1気筒あたり2バルブの直列6気筒、ソレックス3連 キ ャ ブ レ タ ー、DOHC、1988ccで、 最高 出 力 は150ps/6600rpm、 最 大トルクは18.0kgm/5000rpmを発生した。

足回りはサスペンションが前後ともダブルウイッシュボーン/コイルの4輪独立懸架で、ブレーキは4輪ディスクを採用した。現在は珍しくない4輪ディスク・ブレーキだが、国産車としては初めてであった。国産初といえばリトラクタブル・ヘッドランプもトヨタ2000GTが先鞭をつけた装備である。

インテリアに関してもローズウッドの1枚板のダッシュボードやレザー張りバケットシートなど、内装の豪華さも当時のトップレベルで「すべて純国産」は自慢のひとつであった。しかし「ハイグレードなクルマづくり」による高価格も響いて、昭和45(1970)年8月の生産打ち切りまで3年3カ月の生産累計はわずか337台だった。

ちなみに通常はすべてのパーツのひとつひとつを銭単位(円単位ではなく)でコスト計算して生産されるが、2000GTほどコストを無視して作られた例はない。

それはトヨタの技術を世に知らしめる目的があったからこそできたことで、それだからこそ歴史に現在でも名を残す名車として輝いていると言える。自動車史の中でも唯一無二の存在なのだ。