新選組「隊規」の実情
血気盛んな浪人たちをまとめるためにつくられた、新選組の「鉄の掟」として後世に伝わっているのが局注法度です。
局中法度は近藤勇と土方歳三によって定められたとされており、「士道二背牛間敷事」「局ヲ脱スルヲ不許」「勝手二金策致不可」「勝手ニ訴訟取扱不可」「私ノ闘争ヲ不許」のルールに違反すれば、切腹や粛清は免れられなかったと言われています。
こうした隊規を元に新撰組という組織は運営され、このルールを破ったために粛清された隊士は、新選組が成敗した志士の倍近くいたとされています。
しかし実際には、新選組はこれほど厳しく運営されたわけではありませんでした。
新選組に隊規が存在していたことは、隊士だった永倉新八が後年に回顧しています。しかしその内容は前述した五項目のうち四項目だけで、私闘禁止のルールは含まれていませんでした。
広告の後にも続きます
そもそも、永倉は隊規のことを禁令と呼んでおり「局中法度」という呼び名ではなかったようです。少なくとも、幕末期にそう呼ばれていたことを証明する史料は存在しません。
では、なぜ新選組の隊規は局中法度と呼ばれ、私闘禁止のルールが追加されたのでしょうか。
虚実交えたフィクション
これは、今では答えがはっきりしています。新撰組の隊規が局中法度と呼ばれ、私闘禁止のルールが追加された形で語り継がれるようになった理由は、作家・子母澤寛の執筆した小説『新選組始末記』の影響です。
子母澤は昭和3年(1928)に出版したこの小説の中で、禁令を局中法度と名付け、本来は存在しなかった私闘禁止の項目を加えたのでした。