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師から芭蕉への言葉…励ましと同時に「修行の根本は心を磨くことのみ」という本音

ゴールドライフオンライン

現在(いま)に名高い俳聖を「禅の人」として見つめ直し、これまで踏み込むことのできなかった空白の時代にも独自解釈を示した、最新芭蕉本。※本記事は、山城利躬氏の書籍『夢は枯野をかけめぐる 風羅坊・松尾芭蕉』(幻冬舎ルネッサンス)より、一部抜粋・編集したものです。

第一部  夢は枯野をかけめぐる

野ざらし紀行

芭蕉の生前は比類のない誠実さで、物心両面で芭蕉を支え、芭蕉の死後も、特に関西方面の指導的役割を果たした。死の床の芭蕉より「おくのほそ道」を預かり、後世に遺した。また師の遺訓を「去来抄」として、世に伝えた。去来入門の段階で、後年蕉門五哲と呼ばれるうちの〝三哲〟が揃ったことになる。

鹿島紀行の旅(十一日間)

四十四歳(貞享四年)八月、「野ざらし紀行」を終えて二年目の秋、佛頂が鹿島神宮との土地をめぐる争いを終え、和尚の座も後進に譲り一介の修行僧としてとどまっている根本寺を訪ねた。供は行脚僧姿の宗波で、本所定林院(のちの芭蕉山桃青寺)の住職、いま一人は曽良である。

曽良は、この二年後の、「おくのほそ道」の旅の同伴者として有名になるが、江戸大火(振袖火事)後の、第二次深川芭蕉庵で芭蕉に会い意気投合して、近くに住み、朝夕芭蕉の身辺の世話を焼いていた人である。江戸で吉川惟足に神道・和歌を学び、世に名を知られていた。曽良は、同伴することで、西行の歌枕鹿島神宮参詣も期待していたのではないか。

芭蕉のこの度の根本寺訪問は、佛頂和尚との名月鑑賞の外に、大きな目的があった。佛頂和尚に対する、お礼とも、お詫びとも言える挨拶である。

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「猿蓑」巻之六、「幻住庵記」にある、「一たびは仏籬祖室の扉(とぼそ)に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労して、暫く生涯のはかり事とさへなれば、終に無能無才にして此一筋につながる」にあるように、深川臨川庵での、禅についての厳しい研修により、僧になるところまで考えた。

佛頂和尚も期待していた節がある。芭蕉は、おそらく、半ば迷いのなかで、(野ざらし紀行の)旅に出たと想像されるが、旅の結果は佛頂和尚との禅の修行で得た人間本来無一物の境地で俳諧の道を全うする点で、心が定まった。佛頂は、鹿島神宮との争いも終わり、その後始末や、後継者に和尚の座を譲ることなど、多忙の日々であったと思われる。

詳細は不明だが、なんらかの形で了解のやり取りはあったものの、「仏籬祖室の扉に入つたと同じ気持ちで風雅の道を全うする」決断について、佛頂に伝えたかった、その確認の出会いでもあったと推測する。勿論、風雅の道に進みたい意向は、伝えてあった上でのことであるが。

「昼より雨しきりに降りて、月見るべくもあらず。このふもとに、根本寺の前の和尚、今は世を遁れてこの所におはしけるといふを聞きて、尋ね入りて臥しぬ。」

庵は(杜甫が)「人に深い反省の思いを抱かせる」と詩に詠んだような雰囲気で、清浄な心を得る心地であった。明け方雨が上がり、「和尚起こし驚かし侍れば、人々起き出でぬ。月の光・雨の音、ただあはれなるけしきのみ胸にみちて、言うべき言葉もなし。」根本寺に古い軸がある。芭蕉直筆とも言われている。

八月十五日夜

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