奥羽越列藩同盟の結成
幕末期に、東北・北陸の諸藩が同盟を結んで新政府軍と戦った奥羽越列藩同盟というのがあります。この同盟は、歴史に詳しい方ならご存じでしょう。
この同盟は今までは諸藩が一致団結していわば「ワンチーム」となって戦ったようなイメージがあります。しかし実際にはそうではなく、同盟そのものが半強制的だった上に裏切りも相次いだという代物でした。
そのあたりの経緯を説明しましょう。
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まず、当時の会津藩と長州藩の関係を知っておく必要があります。新政府軍の主力だった長州藩は、もともと会津藩に恨みがありました。松平容保が攘夷志士を何人も摘発していましたし、政変によって京から長州を追い出した経緯などがあったからです。
そこで、江戸城の無血開城が行われると、新政府軍は矛先を会津へと向けます。もともと松平容保は新政府に対して恭順の意志を示しており、東北諸藩は会津に対して同情的でした。しかしある事件をきっかけに、開戦は避けられない流れになります。
きっかけは、東北の鎮圧を任された奥羽鎮撫使の参謀である世良修蔵が、東北諸藩を敵視して挑発的な態度を取ったことでした。これに激怒した仙台藩士が世良を殺してしまったのです。
こうして、開戦やむなしという流れができてしまい、東北諸藩はまず「奥羽列藩同盟」を結成。さらにそこへ北陸の諸藩を加えた「奥羽越列藩同盟」が成立したのです。