「西洋の全ての哲学はプラトン哲学への脚注に過ぎない」
この言葉には「ヨーロッパ哲学はすべてプラトンの影響下にあり、プラトンから逃れることはできない」という意味が込められています。
「民主主義」や「資本主義」また「共産主義」など、人類の長い歴史を通じて、数々のイデオロギーがヨーロッパから生まれました。つまり、ヨーロッパ発祥のイデオロギーには「プラトンの思想が大なり小なり含まれている」という考え方ができるわけです。ヨーロッパとは関係のない私達であっても、民主主義や資本主義の社会に暮らしている以上、プラトンからは大変な影響を受けていることになります。
今から2000年以上前の哲学が、現代社会にも大きな影響を与えている。こう考えると、単純にすごいことですね。
今回はプラトンの思想をなるべく分かりやすく説明したいと思います。
プラトンといえば「イデア論」が有名ですが、当時の社会的背景を念頭に置いて理解する必要があります。そのため古代ギリシアの歴史にも少し触れつつ、プラトンの思想に迫っていきましょう。
ソクラテスに師事したプラトン
プラトンは紀元前427年、アテナイの名門に生まれました。当時のアテナイは、ペロポネソス戦争の真っ最中です。
アテナイを中心とした「デロス同盟」とスパルタを中心とした「ペロポネソス同盟」の間でペロポネソス戦争は起きます。古代ギリシア世界全体を巻き込み、結果としてアテナイはスパルタに降伏しました。
青年期の頃からプラトンは、晩年のソクラテスに師事します。プラトンとソクラテスは43歳ほどの年齢差があり、ソクラテスはもう老人になっていました。
現代の職業に例えると、ソクラテスはインフルエンサーと言ったところでしょうか。権力者やソフィストに対して、ソクラテスは討論を挑み、次々と論破していきます。そのため、アテナイの若者から圧倒的な支持を集め、プラトンもソクラテスに魅了された1人でした。
しかし紀元前399年、ソクラテスは処刑されてしまいます。プラトンが28歳のときです。この出来事は、プラトンの人生に決定的な影響を与えました。
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ペロポネソス戦争に敗れたアテナイは、敗戦の責任をソクラテスに負わせます。罪状は「若者を間違った方向に誘導した」というもので、彼は裁判にかけられるのです。プラトンを含め弟子達はアテナイからの逃亡をソクラテスに提案しますが、ソクラテスは「悪法もまた法なり」と言い、毒をあおり死亡しました。
この裁判については『ソクラテスの弁明』(プラトンの初期対話篇)に詳しく書かれています。
ソクラテスの処刑後、弟子であったプラトンは、責任の追求から逃れるためアテナイを出国。情勢が落ち着くのを待って帰国します。この時期にソクラテスの功績を伝える初期対話篇をいくつか発表しました。
旅を通じて、自身の思想を形成したプラトン
その後、プラトンは世界漫遊の旅に出かけます。
エジプトやアフリカ北岸にあるギリシア人の植民都市キュレネを訪問。また南イタリアのタラントに拠点を構えていた、ピュタゴラス教団に留学します。当時教団を率いていた大数学者アルキュタスから、数学を数年間学びました。その後、シシリー島にも渡ってシュラクサイに滞在。そして長い旅を終えて、アテナイに帰国します。
この旅を通じて、プラトンは自身の思想を形成することに。帰国後には、アテナイ郊外に「アカデメイア」という学園を開きました。「学問」を意味する「Academy アカデミー」の語源になります。
イデア論とは?
2024年4月12日