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初期の明治新政府を運営したのは薩長ではなく公家だった!~ 公家による政治運営から内閣制度発足まで【前編】

Japaaan

実は「公家政権」だった明治政府

私たちは、明治時代の「明治新政府」というと、薩摩・長州出身の閣僚たちが最初から幅を利かせており、その後も派閥争いを繰り返していたというイメージで想像しがちです。しかしそれは誤りで、最初に明治新政府の実権を握っていたのは公家たちでした。

例えば、東京遷都については大久保利通が主導権を握っていたとよく言われますが、これも司馬遼太郎の小説によって植え付けられた勘違いで、史実ではありません。

当時、大久保は公家社会の因習から脱却することを目指して、浪速への遷都を主張していました。しかしこれは反対に遭って頓挫し、最終的に朝廷を江戸に置くことを決定したのは公家出身の三条実美です。この三条の判断に大久保は関与していません。

確かに、大久保利通は明治6年の西郷隆盛の下野から明治11年に暗殺されるまでの間、各分野を束ねる立場にあり「大久保政権」などとも呼ばれました。しかしこの頃の大久保も、何かを決定する際には必ず岩倉具視や三条実美の了解を得る必要があったのです。

その後、紀尾井坂の変で大久保が暗殺されると、彼の役割を伊藤博文、大隈重信、井上馨が役割分担することになりました。

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そして明治14年、この三名の権力争いで大隈重信が脱落すると、18年には内閣制度が発足。さらに22年には大日本帝国憲法の発布となります。この流れの中心人物は、実は岩倉具視でした。

もう少し詳しく説明しましょう。

立憲民主制への道

憲法制定の方針がはっきりしたのは明治9年のことです。その後、明治12年のアメリカのグラント前大統領の助言によって、性急に憲政を敷こうとせず、ゆっくり慎重に事を進めることが決まりました。

しかし、ここで大隈重信が性急に国会を開設しようとする憲法草案を作ります。そして左大臣の有栖川宮に進言したのですが、その内容の過激さに驚いた有栖川宮は三条・岩倉に相談。さらに彼らから伊藤博文に話が伝わり、伊藤たちから大隈は攻撃を受けます。

ここで大隈は論争に敗けて失脚。憲法問題については岩倉具視が引き受けます。彼は各国の法制に通じていた井上毅の意見を取り入れた形で、憲法の起草を進めていきました。そんな彼をフォローしたのが伊藤博文でした。

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