松岡が指導をしていた2007年、リーグ戦で戦う天津ライオンズのベンチ風景(写真:共同)
【連載⑨・松岡功祐80歳の野球バカ一代記】
九州学院から明治大学へ入学。そしてかの有名な島岡吉郎監督の薫陶を受け、社会人野球を経てプロ野球の世界へ飛び込んだ。11年間プレーした後はスコアラー、コーチ、スカウトなどを歴任、現在は佼成学園野球部コーチとしてノックバットを握るのが松岡功祐、この連載の主役である。
つねに第一線に立ち続け、”現役”として60年余にわたり日本野球を支え続けてきた「ミスター・ジャパニーズ・ベースボール」が、日本野球の表から裏まで語り、勝利や栄冠の陰に隠れた真実を掘り下げていく本連載。今回は横浜ベイスターズのスカウトを卒業後、なんと中国プロリーグの強豪「天津ライオンズ」のコーチとして60代半ばで新天地へ飛び込んだ松岡の果敢な挑戦を追う。
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ほとんどの会社の社員は60歳で定年退職を迎える。しかし、横浜ベイスターズを離れた時に64歳だった松岡功祐に〝老後〟はない。
「ベイスターズでスカウトをやった最後の年に、1カ月だけ台湾で行われていた天津ライオンズのキャンプにサポートで行ったことがあるんです。何が気に入られたのかわからないけど、『そのままコーチをやってほしい』と言われました」
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松岡がコーチとして中国に行くことを聞きつけたある選手が野球用品を寄付してくれた。
「ベイスターズでもプレーしていた工藤公康です。春季キャンプに行って、よく彼にはノックを打っていたから、そのお礼ということだったんだと思います。スパイクやグラブ、手袋などをすぐに用意してくれました」
そんな気遣いができる選手はなかなかいない。
「彼は引退してから福岡ソフトバンクホークスで監督も務めましたね。そういうことがさりげなくできる人なんですよ。プロに入った時に監督だった広岡達朗さんの教育がよかったんじゃないでしょうか。
ホテルのレストランで偶然会った時にもあいさつに来てくれたことがあります。スーパースターでしたけど、細やかな気遣いができる人でした」
2007年、当時在籍していた横浜のキャンプでウオーミングアップする工藤公康投手(写真:時事)
翌年に北京オリンピックの開催を控えていた2007年、ベイスターズと提携関係にあった中国プロリーグの強豪、天津ライオンズに1年間、派遣されることが決まった。