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芥川賞作家・町屋良平「フィクションは悪いものとして働いていることが多い」 新作『生きる演技』インタビュー

Real Sound

町屋:そこは探り探りですね。三人称は自分にとってかなり大変で、なるべく自分が使いやすい文体を考えているなかで、ちょっと不思議な感じになっているという。内声を言語化しようとすれば、本来は一人ひとり違う言語になるはずなんです。それをそのまま外に出すのは、頑張ればできることにはできるんですが、小説の場合、それを一般化する作業が必要になるんですよ。

ーーある程度わかりやすくする、と?

町屋:そうですね。生の内声をそのまま外に出したら、おそらく他者はまったく理解できない。そこで一般化してバランスを取り、他者がわかるような形に加工するわけですが、自分としてはそこに抗いたい気持ちもあるんですよね。

ーーなるほど。今回の小説はタイトルにもあるように、日常における演技が大きな主題になっています。

町屋:人が人といるときは基本的に演技をしているものだと思います。私自身も、極端に言うと人の顔色を伺い続けて生きてきたところがあるし、おそらく他の人もそうでしょう。演技を小説として考えるために登場人物を俳優にしました。自分自身を社会に合わせてしまう場合もあるし、むしろ自ら合わせたくなるところもある。それは一体、どういうことなのだろう?と考えたのが出発点です。

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ーー演技しないで生きている人は、おそらくいないでしょうからね。それぞれの役割を演じているというか。

町屋:たとえばすごくイヤな上司がいるとして、「今日はあの人のペースには乗らないぞ」つまり「演じないぞ」と思っていても、どうしても引っ張られてしまう。自分の経験上、パワーが強い人が1人いれば、その場にいる全員が演じることを強いられてしまうと思うんです。学校の先生もそうですよね。学級崩壊になれば、それぞれ我を出すのかもしれないけど。

ーー『生きる演技』では“場”という言葉が何度も登場します。“場”の支配力が演技を誘発するというか……。

町屋:いちばん大きいのは人間関係などの環境だと思うんですが、“その場がそうさせる”ということもあるのかなと。あまり意識してない部分で、実は強い影響を受けているというか。人間の一生よりも場のほうが長く続くし、そこに蓄積されたものが人に及ぼすものはかなりあると思います。

ーー町屋さんご自身も“場”の力を意識しながら過ごしてきたのでしょうか?

町屋:私は気づくのが遅いタイプで(笑)、学生時代はそこまで意識してなかったんです。スクールカーストみたいなものもわかってなかったし、「朝が弱い」「体調が悪い」というファクターによって青春もまったく謳歌していなくて。当時みんなが感じていた抑圧にも気づいてなかったと思います。「クラスのなかにイケてるグループがいるな」くらいはわかってましたけどね。ただ、高校を卒業してすぐにバイトを始めたんですが、そのときは解放感を感じました。社会のほうがラクと言いますか。

ーーちなみに大学に進学しなかったのも、学校という場から離れたいと思ったからなんですか?

町屋:いや、特に何も考えていなかったですね。高校3年のときに周りの人たちがいきなり勉強しはじめて、すごくビックリしたんです。進学校だからよく考えれば当たり前なんですけど、私は「みんな、ずっとチャランポランだったのにどうして?」と(笑)。つまり自分はわかっていないというか、理解するのに時間がかかるんでしょうね。他の人が普通に受け取っていること、理解していることがわかっていなくて、後々「なるほど、そういうことだったんですね」と。だからこそ、このタイミングでようやく「演技」という主題が出てきたのかもしれないです。

ーー周りの人を見ていて、すごく自然に「演技」しているように感じることもありますよね。

町屋:そうですね。一方で、性格がいい人はオンとオフの差が少ないとか、ブレないことがかっこいいという感覚も、世の中には強くあるような気がします。ちょっとブレると「以前と言っていることが違う」と「論破」されてしまうから。自分としてはブレたほうがいいと思っているんですけどね。持論なんてどんどんひっくり返していいと思います。

■フィクションは悪いものとしても働く

ーー『生きる演技』のもう一つの軸は“暴力”というテーマです。登場人物による凄惨な暴力行為も描かれていますし、生崎、笹岡が文化祭で上演する演劇では終戦直後に起きた東京・立川での米軍捕虜虐殺時事件が取り上げられます。

町屋:最初の100枚くらいを書いた段階で編集者に読んでもらったときは「学園モノでしかない」という感じだったんです。ただ、自分としては「このまま書き進めていけば、大きなものに繋げざるを得ないだろうな」と感じていたんですね。日本の戦争犯罪の特異さと言いますか。生崎と笹岡が仲良くなったあたりからは、そういう資料を集めていました。

ーー戦争という状況に置かれたときの人間の精神状態は、“場”が生み出す空気の最悪のケースだなと改めて実感しました。

町屋:それもそうですし、終戦を迎えたときにモノの見方や人間そのものがガラッと変わってしまったんですよね。それこそ「別の作品に変わった」くらいの感覚で、戦前と戦後では人格がまったく違う印象がある。立川で起きた米軍捕虜への集団暴行については、誰かに強制されたというより、まったくの自分の意思であるにも関わらず、同時に大きいものに巻き込まれているような感覚があったように感じました。(太平洋戦争の)末期の頃は激しい空襲も受けていたし、物資もまったく足りなくて、「捕虜に対しては杜撰な扱いをしていい」というコンセンサスが形成されてしまったようです。

ーー戦中から戦後の変化については、三島由紀夫、大岡昇平など、多くの小説家が作品や随筆に残しています。

町屋:自分のなかで「社会の雰囲気がガラッと変わった」という印象をとくにはっきり感じたのは大江健三郎さんの書くものによってです。終戦時、大江さんはまだ十歳で、だからこそ当時の空気の変化をしっかり受け取っていたと思うし、もっと年配の作家だと認められないようなことも鋭敏に言語化できていたんじゃないかな、と。その頃のことを書いている随筆等は、この小説の執筆中もかなり読み返していました。当時の大江さんの感覚や直感はとても信頼できると思っています。

ーー終戦直後の“場”の変化は現在も地続きだと思いますし、『生きる演技』にも通底している印象があります。そういう危機感を共有したいという思いもあったのでは?

町屋:結果的にそうなるだろうなとは思っていました。ただ、作中でも書いたように、フィクションで一瞬、その感覚が共有されたとしても、そんなに大した力にはならないと思うんです。もしフィクションにそれほどポジティブな力があるのなら、もっと色んなことがよくなっているはずなので。

ーーこの小説には“フィクション”に対する懐疑もたびたび表現されてますよね。「フィクションの中で頻繁に説かれる正義がまるで機能せずわれわれが抱く差別感情や抑圧に気づきもしない。フィクションの中ならあれほど共感されるものなのに、であるならば、そのフィクションこそが問題なのではないか?」という一節もありますが、今現在、町屋さんは“フィクション”についてどんな考えをお持ちなんでしょうか?

町屋:フィクションは“良いもの”として捉えられがちですが、実はかなり悪いものとして働いていることが多いと思っています。小説や映画など、作品としてまとまったものではなくても、人には物事をストーリー化して理解しようとする傾向がある。「本当にそれでよかったですか?」という気持ちもあるんですよね。僭越ながら自分が思っているのは、たとえ迂遠な道筋を辿ることになるとしても、なるべく悪い方向にいかないようにフィクション化するのが小説家の役目なのかなと。そういうモデルケースを提示できれば、社会に対して婉曲的に影響を与えられるかもしれないというのは、もともと私が持っていた文学観でもあります。

ーーポジティブな形で現実のフィクション化ができれば、小説というメディアは社会に良い影響を持ちえる、と。

町屋:そうなるといいな、と。ただ、フィクションを悪用する人も世の中にはいる。そうならないためには、ある程度の手続きが必要だと思います。わかりやすくしたいのはやまやまなんですけれど、物語を単純にしすぎると広い意味での誤りも含むことになるし、悪用される危険性も増すかもしれない。なので時には「ちょっとわかりづらいんですけど、すいません」と提示する場面もあるわけです、文学って。

ーーわかりやすいフィクションの悪用は、差別や抑圧など、いろいろな社会問題の一因になっていると思います。陰謀論が広がり続けているのも、その一つなのかなと。

町屋:素朴なフィクションに乗っかるのはすごくラクだし、気分がアガるんだと思います。私自身にもそういうときがあります。しかし瞬発的なコミュニケーションやフィクション化によって物事が良くない方向に進んでしまう歴史もあると思いますし、逆に言葉だけで成り立つ小説という形式でもやりようによってはそれに対抗できるんじゃないかなと。そこには希望を持っているし、けっこう楽観的かもしれないですね。

ーー『生きる演技』も、歴史や現状の良質なフィクション化のきっかけになると思います。読者に対してはどんな思いがありますか?

町屋:私の小説を読んでくださる方には「いつもついてきてくれて、ありがとう」という気持ちです。私は読むよりも書く方がラクだと思ってるんですよ。小説を書くのは書き手が好きに頑張ればいいだけなんですけど、受け取る側は受動的な集中力や気力、体力が必要じゃないですか。特に自分はどんどん走っていってしまうというか、長くなりがち、ややこしくなりがちなので、読むほうは大変だと思います。自分も今は書くより読む方が体力的に大変です。いまはエンターテインメント性に富んで優れた小説もたくさんあるのに、私の勝手な方へ走っていくような小説をちゃんと意図を汲んで読んでくれるので、やっぱり「ついてきてくれてありがとう」ですね。

ーー「ついてきてくれてありがとう」って、ロックバンドのボーカルのMCみたいですね。

町屋:いいですね(笑)。SNSなどで発信するとあざといので、読者のみなさんの目の前で言ってみたいです。

ーーデビューから7年目で『生きる演技』を書き上げて。この後は新たなフェーズに入ることになりそうですね。

町屋:変わらざるを得ないだろうなと感じています。これまでの作品の登場人物は若い人が多かったんですが、今後は成熟できないなりにも“大人になる”ということを描いてみたくて。特定の人物を掘り下げるというより、大人の群像劇のような書き方になるような気がしています。

ーー青春小説から離れる時期が来ていると。

町屋:そうかもしれないですね。これまでも“反・青春小説”としてやってきたつもりなんですが、そこからも離れることになりそうです。

(文=森朋之)

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