パラスポーツのトレーニングを重ねることで脳の活動に特異な変化が起き、超人的な能力を得るようになる。「超適応」と呼ばれるこの現象が、近年の脳研究で注目されている。「超人」の脳を分析することで明らかになった、人間の能力拡張の可能性とは──。
パリ大会の顔になるパラアスリート
2023年6月、右足にカーボン製のスポーツ義足を装着したマルクス・レーム(ドイツ)が、自らが持つ走り幅跳びの世界記録(パラ陸上・T64クラス)を更新した。記録は8m72。2021年の東京オリンピックの男子走り幅跳び金メダリストの記録が8m41なので、それを31cm上回ったことになる。
レームは2023年8月に35歳になった。走り幅跳びの選手としてはピークを過ぎていてもおかしくない年齢だ。それでも、彼はこの大ジャンプを「あまり良いジャンプではなかった。着地のタイミングを間違えてしまったんだ」と話す。その言葉には、さらなる記録更新が視野に入っていることを示している。
「パリ2023世界パラ陸上競技選手権大会」で観客を魅了したレームの跳躍photo by X-1
パラリンピックは3連覇中。圧倒的な強さであるがゆえに、パリ2024パラリンピックで彼が何色のメダルを獲るかは、もはや興味を示す人はいない。それでも、大会が始まれば彼のジャンプは最も注目を集めるだろう。理由は一つしかない。1991年8月の東京世界陸上でマイク・パウエルが生んだ不滅の世界記録「8m95」を超える跳躍が期待されているからだ。それは、オリンピック選手の記録をパラアスリートが超える歴史的瞬間でもある。
義足の性能の向上が記録を伸ばしているという批判もある。そのことを「テクニカル・ドーピング」と言う人もいる。しかし、使用している義足は市販されているにも関わらず、レーム以外に8m台を跳べる選手はいない。2023年7月に開催された「パリ2023世界パラ陸上競技選手権大会」でも、2位の選手に1m10の差をつけて優勝した。レーム一人だけが飛び抜けた成績を残していることについて、義足の性能のみに理由を求めるのは無理がある。
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では、他にどのような要因が考えられるのだろうか。専門家たちの間で近年話題になっているのが、アスリートと脳の働きの関連性だ。パラアスリートの脳の動きを研究する東京大学大学院総合文化研究科の中澤公孝教授は、レームが運動をする時の脳の動きは一般の人とは異なるという。
パラアスリートの脳の動きを研究する中澤教授photo by Takao Ochi
「一般的に人間の脳は、右半身を動かすときは左脳だけ、左半身を動かすときに右脳だけが活性化します。ところが、レーム選手の脳をMRI(磁気共鳴画像化装置)で調べると、義足の右足を動かすときに両方の脳を使っていることがわかりました。日常的にスポーツをしない一般の義足ユーザーは、こういった脳の反応はありません」
脳卒中などで脳の神経に損傷が残り、腕や足にまひが残った人でも、リハビリを繰り返すと手足が動かせるようになることがある。そのとき、損傷していない部分の脳がまひした部分を動かすために活動している。これは、脳科学で「代償反応」と呼ばれている。
中澤教授が発見したのは、それとは真逆の現象だった。レームは14歳のときに事故で右足を失ったが、脳には何の傷も受けていない。それが、その後の長年の陸上競技のトレーニングによって脳に変化が起きていたのだ。
残された神経リソースが発達!?
アスリートの脳を研究している情報通信研究機構の内藤栄一氏は「パラスポーツのトップアスリートの中には、障がいによって失われた機能を、残された神経リソース(資源)を最大限に生かすことで補っている選手がいる」と話す。内藤氏は、こういった能力を「超適応」と呼んでいる。
東京2020パラリンピックでブラジルを5連覇に導いたアウベスphoto by X-1
具体的に説明してみよう。人間の脳には「高次視覚野」という場所がある。ここでは、目から入った視覚的な情報が統合されている。視覚障がい者の場合、高次視覚野を使うことはない。ところが、ブラインドフットボール 界のスーパースターであるリカルド・アウベス(ブラジル)は、目が見えないにもかかわらず、空間を移動している想像を頭の中ですると、高次視覚野を活発に働かせていた。また、空間(コート)の中で自分がどこに位置しているかの情報を処理する「脳梁膨大後部」も拡大していた。