学園祭ライブでゆらゆら帝国をブッキング(大阪・長居 その8)〜劔樹人【あの街に鳴る音】第8回〜
耳マン
さらに、私が所属するバンド“あらかじめ決められた恋人たちへ”が2013年にeastern youthのイベントに出演した際も、岩井さんがイースタンのツアーマネージャーとして帯同しており、学祭の実行委員だった大学生の私は、10数年を経てアーティストとして関わることができたのだった。
さて、話は戻って1999年の春、BOREDOMSを超えるようなインパクトあるブッキングに悩んだ私は、岩井さんへアメリカのロックバンド、ジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョンへの出演オファーをお願いする。しかし、「海外アーティストは契約感覚が日本のアーティストと違うので、キャンセルになるとたまらないからやめましょう」と岩井さんに諭される。今思うと当然のことである。
私を使って自分の好きなアーティストを見たい音楽系サークルの先輩たちからは、いろいろプレッシャーもかかっていたが、最終的に自分の好きなアーティストにしたいと思った私は、3ピースバンド・ゆらゆら帝国のブッキングを岩井さんに打診。話はすぐにまとまり、1999年の銀杏祭はゆらゆら帝国のフリーライブが決定したのであった。
ゆらゆら帝国と初対面したときの衝撃
銀杏祭のライブ前日、新大阪の駅にゆらゆら帝国を迎えに行ったときのことは忘れられない。
ゆらゆら帝国は、メンバーと変わらないくらいパンチのあるマネージャーさんと4人でやってきた。
そして迎えた当日。朝から会場準備とリハーサルに忙しく過ごし、学内はコンサート目当てのお客さんで大混雑になっていた。開演を前に緊張の真っ只中、軽音楽部の部長であるAさんが私にこう言ってきた。
軽音楽部が学祭中に使っているライブハウスの教室は、アーティストの楽屋となる会議室のすぐそばだったのである。軽音楽部は前年も、BOREDOMSのメンバーの別バンドをわざと部員に演奏させて本人に聴いてもらうという悪ふざけをしており、味をしめていた……。
確かに私は、その夏の軽音楽部のイベントでゆらゆら帝国のコピーをしていた(ドラムは越後屋の阿佐田亘くん)ので、やってできないことはない。Aさんに押し切られる形で私はコンサート担当の職場を放棄し、ギュウギュウになった教室でゆらゆら帝国の楽曲を演奏した。
正直、演奏は決して悪くはなく、本物のゆらゆら帝国を観にきたお客さんにも余興的に喜んでもらえたのではないかと思う。その後私は仕事に戻り、本物のゆらゆら帝国の演奏は大いに盛り上がって大成功で無事終了。
最後に集合写真を撮るというとき、マネージャーさんが私にこう声をかけてきた。
それから時が流れて2010年のある日。とあるライブハウスでこんな出来事が起こる。
SMASHの岩井さんと同じく、清水さんともその後一緒に仕事をすることがあったりと、今も交流が続いている。
「こんなカッコいい64歳ほかに知らない!」「存在が希望」あの人気バンドのベーシスト、64歳のバースデーショットに注目集まる