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【画像】顔はあんまり似ていない? 宮崎駿・吾朗親子を比較(4枚)

宮崎吾朗が監督になった経緯は?

 2023年7月14日から宮崎駿監督の最新作の映画『君たちはどう生きるか』が公開され、それを記念して「金曜ロードSHOW!」でスタジオジブリの映画が7月7日から3週連続で放送されます。公開同日の14日に放送されるのは、宮崎吾朗監督の第2作目にあたる『コクリコ坂から』(11年)です。宮崎吾朗監督の父である宮崎駿監督は、同作では企画と脚本を担当しました。

 宮崎吾朗監督は、06年の『ゲド戦記』で監督デビューする際、父親の猛反対に遭ったといいます。『コクリコ坂から』を制作する際も、宮崎駿監督からの干渉に端を発する、「父子の確執」があったのではないかとささやかれていました。実際はどうだったのでしょうか?

『コクリコ坂から』に至るまでの経緯をおさらいしておきましょう。緑地設計の仕事をしていた宮崎吾朗さんが、スタジオジブリの仕事に携わるようになったのは98年のことです。まずは、三鷹の森ジブリ美術館の館長としてでした。吾朗さんは、美術館の構想をつくった宮崎駿さんの無理難題を説き伏せるなどして調整役として奮闘します。そして、ジブリ美術館を作り上げ、オープンにこぎつけました。吾朗さんの苦労は、次の言葉などからうかがい知ることができます。

「だいたいひどいんですよ。最初、宮崎駿は美術館を全部『木造で建てたい』って言ったんです。だから、『それは建築基準法上、無理だ』ってこちらから言うわけです。そうすると、『なんでだ!』(拳を振り上げる)って、なるわけですよ(一同笑)」(NewsPicks「知られざる一面。宮崎吾朗のジブリ美術館館長の顔」2015年7月19日)

息子の監督就任に大反対した父・宮崎駿

 続いて、吾朗さんは『ゲド戦記』で初めて監督を務めることになります。アーシュラ・K・ル=グウィンさんの名作ファンタジー小説『ゲド戦記』の映画化は、スタジオジブリにとって念願の企画でしたが、『ハウルの動く城』制作の真っ最中だった宮崎駿監督を除いたスタッフでの制作が模索されていました。吾朗さんは当初、ジブリ美術館の館長として会議に参加していましたが、鈴木敏夫プロデューサーから「監督、やってみるか」という言葉をかけられ、まったく未経験の監督に挑戦する決断を下します。

 これに大反対したのが宮崎駿監督でした。このときは「不愉快」とまで言い放っていました。しかし、吾朗さんが描いた主人公・アレンと竜のポスターの絵を見て沈黙し、息子が監督をすることを了承します。

 宮崎駿監督が父親の顔を覗かせることもありました。『ゲド戦記』の原作者ル=グウィンさんに「あなたの息子、吾朗さんにすべてを預けます」と手をとりながら言われて、感激のあまり涙を流したそうです。鈴木プロデューサーは「あの瞬間だけは、父親の顔に戻っていた」と振り返っています(鈴木敏夫『天才の思考』)。

 吾朗さんは初挑戦だった絵コンテも、見よう見まねでありながら、見事に描き上げました。幼少期から父親が描いた絵コンテを読み漁ってきた吾朗さんは、無意識のうちに監督の仕事の一端を学んでいたのです。

 宮崎吾朗第1回監督作品『ゲド戦記』は、「父殺し」が描かれていることでも話題になりました。実はこのエピソードは当初は構想されておらず、鈴木プロデューサーの提案によって入れられたものです。「父さえいなければ、生きられると思った。」という鈴木プロデューサーが仕掛けたコピーも話題となり、『ゲド戦記』は大ヒットを記録します。しかし、映画の完成披露試写会に現れた宮崎駿監督は、上映の途中で退席してしまいました。公開後も酷評があふれ、父は息子がこれで監督を辞めるだろうと思ったそうです。

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「ダメだね、吾朗は演出に向いてない」

「ダメだね、吾朗は演出に向いてない」



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 しかし、吾朗監督は諦めませんでした。2011年8月20日に放送されたNHKのドキュメンタリー『ふたり/コクリコ坂・父と子の300日戦争~宮崎駿×宮崎吾朗~』では、さまざまな内情が語られています。

 吾朗監督は「ここでやらなきゃ、前にも後ろにも進めないだろうっていう」と、監督第2作のための企画作りを始めますが、3年間にわたって頓挫し続けます。そこで手をさしのべたのが宮崎駿監督でした。マンガ『コクリコ坂から』(佐山哲郎・原作、高橋千鶴・作画)を映画化してはどうだ、と提案したのです。

 これはかつて宮崎駿監督自身が、映画化はどうだろうかと押井守監督や庵野秀明監督らと議論していた題材でした。吾朗監督も提案を受け入れ、映画化が始動します。脚本は宮崎駿監督が執筆しました(丹羽圭子さんと共同)。

 吾朗監督は新作に監督生命を賭けていました。「ここで失敗したら、もう後はないんですよ」と話し、絵コンテをひとりでやり抜くことを決心します。一方、父は用もないのに息子のいる新作準備室に立ち寄り、何かとアドバイスをしようとします。吾朗監督は父の目が届かないマンションに引きこもって、作業を続けました。

 しかし、ここで問題が発生します。ヒロイン・海のキャラクターが重くなりすぎていたのです。父は息子のいないところで「ダメだね」「(演出に)向いてない」と辛辣な評価を下します。主人公はもっと溌剌としていなきゃいけない。それは宮崎吾朗監督にもわかっていたことでした。

 怒涛のようにアイデアが湧き出る父と、打開策が見いだせない息子。豊富すぎる経験を持つ父と、まったくと言っていいほど経験のない息子。どんどんアドバイスしたい父と、ひとりでやり抜こうと決めた息子。吾朗監督はひとりで思い悩みます。

『コクリコ坂から』の停滞を打ち破ったのは、父が描いた一枚の絵でした。水彩で描かれていたのは、前かがみでテキパキと歩く海の姿です。この絵をきっかけにスタッフたちが活気づいていきます。吾朗監督も父の提案を受け入れました。良い作品を作るため、意地もプライドもかなぐり捨てたのです。それでも決めたとおり、絵コンテはひとりでやり抜きました。

 もともと宮崎駿監督は、とても子煩悩な父親でした。愛する息子のために、『パンダコパンダ』(72年)という作品を作ったほどです。しかし、宮崎駿の名が有名になるにつれて、家に帰れなくなってしまいます。宮崎家は事実上の母子家庭になりました。

 高校生の頃、吾朗さんがアニメーターを志したとき、元アニメーターの母は「才能を問われる厳しい世界だ」と断念させたといいます。やがて、吾朗さんは偉大な父から離れたいと考え、緑地設計の道を歩みました。

『コクリコ坂から』は高度経済成長期を生きる少年と少女のピュアな初恋の物語ですが、実は不在となった父をめぐる物語でもあります。海は亡くなった父のことを受け入れているつもりが、実はまだ心の整理がついていない少女。俊は養父に育てられていますが、実の父のことはよく知らずに育った少年です。完成したのは、彼らが亡き父のことを知り、受け入れて、自立していくという物語でした。

『ゲド戦記』の「父殺し」は第三者からの提案でしたが、『コクリコ坂から』の「不在の父親」をめぐる物語は父から提案され、息子がそれを受け止めたものです。当初は父の不在に悩んで影を引きずっていた少女は、そこから解き放たれてハツラツとした少女になりました。

 作品が完成した後、宮崎駿監督は「少しは脅かせって、こっちを」と言ってニカッと笑い、父の反応を聞いた吾朗監督は「クソッ、死ぬなよ」と満面の笑みを浮かべています。

「本当に手放しで褒めたい」と言わしめた第3作

 20年、吾朗監督は第3作となるジブリ初の3DCG作品『アーヤと魔女』を完成させます。原作を勧めた宮崎駿監督は「企画」としてクレジットされましたが、制作期間中は「口を出さないでいてもらえた」そうです(シネマトゥデイ「『アーヤと魔女』宮崎吾朗監督 単独インタビュー」21年9月2日)。

 そして、完成した作品を観て、宮崎駿監督は次のようなコメントを出しています。「映画は面白かった。とても良いスタッフがそろって、作品が持っているエネルギーをちゃんと伝えていて、面白いんです。本当に手放しで褒めたい。単純に面白いと言えるのは、良いことなんで」(YouTube「東宝MOVIEチャンネル」の「宮﨑駿ロングインタビュー」21年8月17日)。

 かつてあった「父子の確執」は、父と息子が長きにわたってクリエイター同士として対峙し続けた結果、雲散霧消したように見えます。ここから父と息子はそれぞれの道を歩んでいくことになるでしょう。その大きな分岐点となった作品が、『コクリコ坂から』なのです。

参考:鈴木敏夫責任編集『スタジオジブリ物語』(集英社新書)