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“赤狩り”とアメリカ追放 ~チャップリンの映画人生~ 没後45年『チャールズ・チャップリン映画祭』

BANGER!!!

1972年のアカデミー賞授賞式にチャップリンは現れた

1972年4月10日。ロサンゼルスにあるドロシー・チャンドラー・パビリオンで開催された第44回アカデミー賞授賞式では、ウィリアム・フリードキン監督の『フレンチ・コネクション』(1971年)が作品賞や監督賞、ジーン・ハックマンが主演男優賞、ほか脚色賞や編集賞など5部門に輝いた。同年には、クリント・イーストウッド主演の『ダーティハリー』(1971年)が北米で公開されていることからも窺えるように、刑事映画の新時代を印象付ける授賞式となっていた。

そんな式典の中で、会場にいる映画人たちが敬愛を向けた場面があった。それは、アカデミー賞を主催する映画芸術科学アカデミーの会長を当時務めていたダニエル・タラダッシュがプレゼンターとして登壇した際のことである。

ダニエル・タラダッシュは、第26回アカデミー賞で作品賞を受賞した『地上より永遠に』(1953年)の脚本家として、脚色賞に輝いた人物。彼が第44回の授賞式で与えられた任務は、アカデミー名誉賞を授与することで、ハリウッドの映画産業、或いは、アメリカの映画界において多大な功績ある映画人称えることにあった。その人物とは誰であろう、<喜劇王>としてサイレント映画時代から活躍してきた大スターのチャールズ・チャップリン。タラダッシュは壇上で「チャップリンとは単なる名前ではなく、映画における言語なのです」と紹介。そこに現れたのは、山高帽にチョビひげ、大きな靴にステッキという“小さな放浪紳士”ではなく、タキシード姿の白髪の紳士という年老いたチャップリンの姿だった。

当時スイスに移住していたチャップリンは、名誉賞の受賞をきっかに招聘されて、約20年ぶりにアメリカの地を踏んでいたという経緯がある。イギリス出身の彼が、才能を見出されてアメリカに渡り、コメディアンとして映画スターになったのは1910年代中頃のこと。前述の“小さな放浪紳士”というスタイルを確立させて、1916年には「世界一高いギャラを獲得したひとり」にまで成長。短篇映画から長篇映画の製作へと移行する過程で、『キッド』(1921年)や『黄金狂時代』(1925年)を大ヒットに導いてゆく。

斯様な人気を誇ったハリウッドスターだったチャップリンが、20年もの長きに渡ってアメリカへ帰らなかったことには理由がある。なぜならば、当時のチャップリンはアメリカを追放された身であったからだ。

サイレント映画からトーキー映画の時代へ

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誤解のないよう予め付言すると、アメリカを追放されたチャップリンには何の罪もない。ある時代に吹き荒れた社会情勢という名の波が、彼の人生を翻弄してしまっただけなのである。その経緯を御理解頂くため、時間をいったん1930年代に戻す。日本では1934年に公開された『街の灯』(1931年)は、チャップリンのフィルモグラフィにとって欠かせない作品。それまでサイレント映画を製作してきた彼が、初めて<サウンド版>と呼ばれる劇伴や効果音の伴った作品として製作したことが、欠かせない大きな理由のひとつだ。

映画に部分的な“音”が付いたことで「初のトーキー映画」とされる、アル・ジョルスン主演の『ジャズ・シンガー』が公開されたのは1927年のこと。『街の灯』公開当時の映画製作は、サイレント(無声)からトーキー(有声)へと移行し、やがてトーキーが主流となってゆく時代だった。

それゆえ、トーキー映画に異を唱えていたチャップリンが“音”を作品に用いたことは、それまでのフィルモグラフィと照らし合わせると革新的な変化だったのである。チャップリンにとって、ショービジネスの原点でもあるパントマイム。その言語を超えた表現を、トーキーによって自ら手放すことへ躊躇していたのだとも伝えられている。

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