当初は国産車メーカーも意義を見出しかねていた
第1回日本グランプリの衝撃
そもそも、日本で本格的にモータースポーツが盛んになったのは1950年代、四輪車はもっと遅く1960年代、ホンダが鈴鹿サーキットを建設して以降です。
鈴鹿で1963年5月に開催された第1回日本グランプリは、二輪のレースでノウハウを蓄積したり、海外情勢の研究でレースを理解したメーカーから、そうでないメーカーまでさまざま。
中には、「要するにウチの市販車の高性能を見せつけ、勝てばいいんででしょ?」とタカをくくっているメーカーもありましたが、フタを開ければ以下のとおり。
- トヨタ:チューニングカーで勝てるクラスだけ参戦、クラウン、コロナ、パブリカ全て優勝
- 日産:ラリーで忙しいため、フェアレディ(SP310)1台だけフルチューンして軽く優勝
- スズキ:2輪レースのノウハウを活かしたフルチューンのフロンテで優勝
- 日野:クラブチームと共同のワークス体制を敷き、コンテッサでクラス優勝
- いすゞ:優勝こそできなかったものの、在日米軍レーサーがベレルでクラウンを猛追
- プリンス:漠然と出てスカイラインスポーツもグロリアもクラウンに惨敗
- スバル:スバル450はパブリカに、360もフロンテに惨敗
※この年、マツダ、ダイハツ、ホンダは参戦できる市販車発売直後か発売前で未参戦。
「レースは金をかければ、それ以上の利益を生む」
見事に明暗が分かれ、特にトヨタは新聞広告で「クラウンも、コロナも、パブリカも全部勝った!」と、セールスを大いに後押しした一方、スバルなどはユーザーからの苦情の電話が鳴り止まなかったと言われています。
これでようやく「レースは利益になるし、そのためには資金を注ぎ込まねばならない」と気づいたプリンスは、翌年の第2回グランプリでスカイラインGTの伝説を作り、スバルもフルチューン360でフロンテへ雪辱を果たしました。
その後、おおむねどのジャンルでも自社が発売するメーカーの高性能や耐久性を証明し、販売に役立てる宣伝の場として、モータースポーツは大いに活用されたのです。
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モータースポーツが足かせとなった時代もあった
環境対策に右往左往して沈滞化した時代
しかし1970年代、オイルショックによるガソリン価格高騰、アメリカの厳しい排ガス規制「マスキー法」で、自動車メーカー各社はレースどころか高性能車の販売すら難しくなり、モータースポーツ界はメーカーワークスの撤退、解散が相次ぎました。
対策が済んだ1980年代以降は再び販売が活発化した高性能車のレースや、F1、WRC、ル・マン24時間レースといった世界的権威を誇るレースへも積極参戦します。
円高ドル安によって高価になり、もはや「安くてよく走るクルマ」ではなくなった日本車の価値を引き上げるには、国際的イベントで勝利し、欧米でブランドを認められる必要があったからです。
世界不況でモータースポーツどころではなくなった時代
しかし2008年、世界経済を混乱させた「リーマンショック」で、再びメーカーは撤退、縮小を余儀なくされ、ダイハツ(DRS)やスズキ(スズキスポーツ)のように、ワークスチームが解散したままのメーカーすらあります。
自動車メーカーが環境性能や経済性に力を入れねばならない時、モータースポーツはその手助けにならないどころか、足を引っ張る存在だったのです。