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観客の度肝を抜く濱口竜介監督『悪は存在しない』。映像とせめぎあう言葉の精度と響き、その圧倒的おもしろさ【宇野維正の「映画のことは監督に訊け」】

MOVIE WALKER PRESS

濱口竜介監督の新作『悪は存在しない』について語る上で、まず手続き的に触れなくてはいけないのはその特異な作品の成り立ちだ。本作はまず、『ドライブ・マイ・カー』(21)の音楽を手がけた石橋英子から、ライブ用の映像を制作してほしいという依頼から始まった。それは石橋英子の即興演奏と濱口竜介の映像が織りなす『GIFT』という作品に結実し、それと平行してその映像制作のために撮影された素材を映画館で上映される劇映画として構成していったのが本作『悪は存在しない』である。

というと、毎回舞台の上で醸成される一回きりの体験となる『GIFT』と、映画という再生芸術のフォーマットに則った『悪は存在しない』は不可分なものなのではないかと思われるかもしれないが、それぞれは独立した作品として鑑賞されること、そして語られることに開かれた作品となっている。それは今回の取材に入る前の会話で濱口監督自身が裏付けてくれたことであり、実際、『悪は存在しない』→『GIFT』の順番で鑑賞した自分の実感とも合致する。したがって、ここでは繰り広げられているのはあくまでも映画『悪は存在しない』についての会話だ。

そうした作品の成り立ちに加えて、ベルリン、カンヌに続いて本作でヴェネチア国際映画祭・銀獅子賞を受賞したことで、濱口監督が同時代において世界的にも突出して高く評価される作家となったことは欠かせない前置きではあるものの、それがある種の「重さ」を伴った先入観として観客に機能してしまうこともあるだろう。今回のインタビューでは、その「重さ」を少しでも取り除き、『悪は存在しない』、そしてこれまでの濱口竜介監督作品に特有の「おもしろさ」に焦点を当てるものにしたいと思った。

その際に手がかりとなるのは、『悪は存在しない』という一度聞いたら忘れることができないタイトルのインパクト、そして本作においては特に中盤で繰り広げられる台詞劇としての吸引力に代表される、濱口監督という作家の「言葉」への鋭敏な意識だ。それはきっと、世界中の映画人から次の動きが最も注目されている日本人監督である濱口監督の大きな未来においても、重要な鍵となっていくに違いない。

■「この『悪は存在しない』は“本来は発表されないはずだったその原作映画”みたいな位置づけなんです」(濱口)
――昨日、映画関係の仕事仲間に「明日、濱口監督に取材するんだよね」と言ったら、「おおぅ…」という、ちょっと畏れ多いみたいなリアクションをされてしまって(笑)。

濱口「いやいや、そんな…」

――濱口監督と話すのには覚悟がいることなんだろうなっていう(笑)。実際、自分も気負ってしまうところはあるんですけど、『悪は存在しない』がとにかくおもしろくて大興奮してしまって。

濱口「ありがとうございます!」

――今回は「作品のおもしろさを伝えたい」という想いでインタビューのオファーをさせていただきました。

濱口「確かにこれまでの作品とは単純にアプローチの仕方が違う、作品の成り立ちも石橋英子さんからの発案がきっかけでしたし、ちょうど自分も全然違うことがやりたいと思っていた時期だったんで。なんかそういうふうに言っていただけると、この作品でなにかが広がったのかもしれないなという気はしますね」

――前提として、世間的なイメージは別として、そもそも濱口監督の作品って台詞のやりとりだけをとってみても、実は誰が観てもおもしろい作品を撮ってきたと思うんですよね。ただ、作品によってはとても尺が長かったり、今回の『悪は存在しない』もまさにそうですが、作中で唐突な展開があったり。

濱口「はい、はい(苦笑)」

――ただ、近作では『寝ても覚めても』や『偶然と想像』がそうですけど、少なくとも2時間以内の作品に関して言うなら、敷居の高い作品ではまったくない。特に今回の『悪は存在しない』はこれ以上ないほど明確な三幕構成になっていて、そういう意味でもすごく観やすい。

濱口「そうですね、そうだと思います」

――作品の特異な成り立ちについてはいろんなところでお話されていると思うので焦点を絞ってお伺いしますが、この尺と構成は、どの程度最初から想定されていたんですか?

濱口「本当に、最初はほとんどなにも想定してなかったんですよ。石橋英子さんのライブ・パフォーマンス用の映像を撮るということになって、でも、いわゆる音楽のライブの後ろでよく流れているような抽象的なタイプの映像は、自分としてはまったくどうしたらいいんだかっていう感じで。そこから石橋さんとやり取りをしていって、どうも普段自分が作っている作品の延長でいいというか、そのほうがよいらしいっていうことがわかって。じゃあ、本当に脚本を書いて物語映画を作るという“体(てい)”で始めて、そこで結果的にいろんな素材が出来てくるはずなので、それを使ってライブ・パフォーマンス用の映像を構成しましょうっていう流れの末に完成したのが『GIFT』です。だから、この『悪は存在しない』は“本来は発表されないはずだったその原作映画”みたいな位置づけなんです」

――最初に今回の企画について聞いた時は、もっと抽象度の高い作品になると思ったんですね。でも、実際に観てみると全然そんなことなく。

濱口「まず念頭にあったのは、石橋英子さんのライブ・パフォーマンスの映像として、彼女の音楽にふさわしい映像を撮るための物語が必要でした。その映像は単に自然の映像じゃなくって、その中には人物も当然いるだろう、と普段の自作の延長として考えるわけです。その登場人物をちゃんと演出していくためには、抽象的なクールな雰囲気の中に単に人を配置して動かすのではきっとあまりよろしくなくて、自分が普段やっているように、物語の中でキャラクター自体が『生きている人』として育っていく必要があって。そこをちゃんとやらないと、その人物の存在というのが、自然の風景の中で際立ってこないと思って、結果として石橋さんの音楽とも拮抗しないだろう、と。なので、物語的にはいろいろと無茶な展開をしてるのかもしれません」

――いや、無茶ではないと思いましたよ。物語の時系列もリニアなものですし。

濱口「そうですね。無茶というか、普通ではない、オーソドックスではない展開といったほうがいいかもしれません。それは狙ってやるときっといやらしい感じになったと思うんですが、企画が要請するものをちゃんとやろうとしたら、必然としてこうなったっていう気がしています」

――最初に観た時は、単純にまったく次の展開が読めなくて、そこがサスペンス的にとてもおもしろかったんですけど、再見してみると、実は最初からすべての描写があの結末へと着実に向かっている。

濱口「はい」

――近年あまりに乱用され過ぎているのであまり使いたくない言葉ですけど、いわゆる“伏線回収”という点でも、登場人物の表情や所作がちゃんと描かれていて。さすがに1回目に観た時は最後の展開にとても驚きましたが、ああ、これはそこまで突飛な話ではないんだなという。そういう意味でも、繰り返し観ることでおもしろさが増していく作品でした。

濱口「ああ、よかった。そうやって2回観て、演出の細部を発見していただけるのはありがたいですね」

――でも、それってごく普通の優れた劇映画の楽しみ方でもあるわけじゃないですか。だから、そういう楽しみ方ができる作品っていうことは、ちゃんと言っておきたいなと。

濱口「どんな企画であっても、やっぱり脚本を書く時は、普通に映画を作るつもりでしか書けないっていうところはあります。それはやっぱり観客にとって面白くないといけない。それと、役を演じる人たちのモチベーションというのも基本的にすごく大事なものだと思っているので。単純に役者が『この役、なんでこういうことをするんですか?』っていう違和感を覚えると、それは作品の仕上がりにも反映されてしまうと思っているんです。脚本もそうですが、役者に渡す副次的な資料も、そういう違和感がなく演じられるようにというのは、今回もいつも通り準備しましたね」

――『悪は存在しない』がここまでスリリングな作品になったのは、作者である濱口監督の足場が不安定だからなのではないかとも思いました。というのも、通常、観客は主人公の視点に作者を重ねることが多いわけですが、濱口監督自身はどちらかというと、山奥の集落で生活を営んでいる主人公の視点ではなく、そこにグランピング施設を作ろうとしている都市生活者側の視点に近いですよね?実際にその土地で映画を撮影するという行為自体も、外部からの侵入なわけで。

濱口「そうです、そうです」

――だから、この作品はそういう侵入者を断罪する側に立った作品というより、むしろ断罪される側に立った作品なのではないかとも思ったんですよね。

濱口「確かに、おっしゃるように、(グランピング施設を作ろうとしている芸能事務所で働いている)高橋とか黛とか、東京から来る人たちの行動原理のほうが、スッと入ってくるという気持ちでシナリオは書いていると思います。今回はシナハン(※注:シナリオ・ハンティング。脚本を書くための現地取材)をかなり入念にしたんですけど、(主人公の)巧とか町の人たちの人物像っていうのは、そこで実際に聞いたことがかなり反映されていて。その話というのは、こちらはそれこそ都会からやってきたよそ者としての立場から聞くわけです。その上で、非常に『その通りだな』って思うことや、感銘を受けたりすることがたくさんあったんですけど、それでも自分は“所詮よそ者である”っていう感覚というのはずっと残っていて、そこの感覚が高橋や黛の描写に転化されたと思います。だからといって高橋とか黛の側のほうに軸足を置いているってわけでもないんです。念入りに『どっちつかず』にすると言うか、そのバランスは、難しかったですけど、脚本を書いていて一番楽しいところでもありました」

――そこが、この作品の純粋なおもしろさにもつながっていると思うんですよ。こういう「都市と山奥の町」みたいな題材にアプローチする際に、作者がどんな出自であったとしても、映画やドラマのようなフィクション作品ってーーもちろんドキュメンタリー作品もそうですがーー「都市」を悪、山に象徴されるような「自然」を善として、二項対立的に描きがちじゃないですか。もちろん、『悪は存在しない』にもそうした側面はありますが、その視点が揺らいでいるというか、特に中盤の東京とその後の高速道路での移動シーンのパートは秀逸で。ちゃんと高橋や黛の人間性への共感めいた眼差しもあって。

濱口「そうですね。一般的な基準からは多少ずれてはいるのかもしれませんが(苦笑)、基本的に自分もおもしろい映画を作ろうとしているんですよ」
■「できることなら、自分が影響を受けてきたような映画へのブリッジになるといいなと」(濱口)

――はい、それはどの作品にも共通している点だと思いますし、少なくとも、物語として読み解くのが難しいような作品を撮る監督ではないと思ってます。

濱口「常に観客に楽しんでもらいたいと思ってますし、自分自身、難しい映画を観る時は大概途中で寝てしまうようなところもあるんで(笑)」

――(笑)。

濱口「基本的には、誰が観てもおもしろい作品を作った上で、できることなら、自分が影響を受けてきたような映画へのブリッジになるといいなという想いも含めて、“入りやすい映画”というのは心がけています。その時に、やっぱり登場人物の1人1人がある程度この現実に存在している人間として見えるっていうのは、“入りやすさ”という点で大事なことだと思って脚本を書いてますね」

――そうですよね。「こんなやついないよ」ってなっちゃった時点で、ちょっと普段とは別のスイッチを入れないと観られないんですよね。敢えて言ってしまいますが、いわゆるシネフィル的な文化圏の作家の作品にはそういう作品も少なくないというか(苦笑)。だから、濱口監督のおっしゃる“ブリッジ”という言葉がすごく腑に落ちるんですけど。

濱口「ただ、そうは言いましたけど、意識的にそうしてるというより、単純に、自分は大学に入ってから映画をちゃんと観るようになったわけですけど、その前はテレビドラマばっかり見てたわけです。一方で世の中には純粋培養みたいな人もいるわけじゃないですか。そういう、『あらゆるタイプの映画を見る』みたいな生粋のシネフィル生活みたいなものを自分は通ってはいないし、実際問題、おそらくシネフィルと言えるほどの作品数は観ていないっていうところはあるので。必然的にちょっと濁ったものにはなるという感じもありますね。結果的に、シネフィル的ともそうじゃないとも言えない、どっちつかずの映画が自分の映画を観てきた体験から出来上がることになるというか。それがもう自分の味というものなんだろう、と受け入れている感じです」

――自分にとって難しそうな映画に挑んで、そこで寝てしまう体験というのも非常に重要な体験だと自分は思っていて(笑)。

濱口「重要ですよ。ついこないだも寝たばかりです(笑)」

――それと、濱口監督の作品というとショットであったり、カメラの動きであったりということが頻繁に取り上げられがちですが、自分は台詞のニュアンスの緻密さに痺れてしまうことが多くて。『悪は存在しない』でそれが最も顕著だったのは、住民への説明会のシーンで。説明する側は立場上、伝聞や推定といった借り物の言葉でしかしゃべれない一方、住民側は基本的に自分の言葉を断定形でしゃべっている。その対比を、かなり意識的に書いているんだろうなって。

濱口「そうですね。日本語って、外国語と違って発話そのものが平坦な分、使用する言葉や文字そのものによってニュアンスを調整する言語という印象があって、語尾は最終的にニュアンスを修正したりもできるものですよね。その語尾を取ってしまうと、言葉がむき出しに、断言的になって、より力強くなるっていうのは、特に巧というキャラクターに関しては狙ってやっていることです。あの説明会のシーンって、演じる側にとっても、『このキャラクターはこういうキャラクターなのか』という理解が深まっていくような、そういう場面でもあるので、こういう言葉のひとつひとつが演じる人にとっての情報になるように願って書いてもいたと思います。そういう点で、単なる台詞というだけでなく、それ自体が演出という思いで台詞は書いてます。その場面で、その台詞を発することそのものが、その俳優の身体全体に働きかける演出にもなってるっていう」

■「タイトルも秀逸だなと。実際に作品を観た後に、そのタイトルが頭の中にいろんなかたちで反響してくる」(宇野)
――断定形でいうと、やっぱり今回はタイトルも秀逸だなと。濱口監督が日本映画界に帰属意識を持たれているのかわからないですが、自分が機会があるごとに書いてきたのは、日本映画――この場合オリジナル作品のことですが――のタイトルのコピーセンスのなさで。例えば、コミックだったり、ライトノベルだったりの世界って、それこそ四文字に略されたところまで考えるみたいなことを、みんな当たり前のように作者がやってるわけじゃないですか。

濱口「なるほど、はい」
――例えばバカみたいに長いタイトルが流行ったりするのも、それによって必然的にみんなが略して、それによって広がるみたいな、そういう経験を積み重ねている。一方で、映画を作ってる人たちって、どうして抽象的で独りよがりなタイトルばかりつけるんだろうってずっと思っているんですよ。タイトルの段階で「観たい」と思わせてくれる作品があまりにも少ない。でも、今回最初に『悪は存在しない』というタイトルを聞いた瞬間から、「どういうこと?」「観たい!」と思わせてくれるし、実際に作品を観た後に、そのタイトルが頭の中にいろんなかたちで反響してくるという。

濱口「自分のこれまでの作品でそれがどれだけうまくいったかはさておき、タイトルは本当に大事ですよね。 “この映画のタイトルはこうだ”とどこかで思いながら観客は観るわけですから。タイトル自体は、物語そのものではないので、そのタイトルと物語がうまい具合に響き合ってくれたらいいなっていうことは、いつも思ってつけています。『悪は存在しない』に関して言えば、最初は手がかりをどうつかんだらいいのかわからなくて、石橋さんが仕事をされてるスタジオの周辺でリサーチを始めたんですよ。カメラマンの北川(喜雄)さんと一緒に。そこで『こういうショットが撮れるんじゃないか』っていうことを自然の風景の中でやっていくところから始めたんですけど、まさに作品の冒頭にあるようなあの景色の中にいると、“この自然の循環の中に悪とか悪意は存在しないよね”って思えてくるんです。東京のような情報に溢れた環境の中にいる時にずっと感じてきたようなものが、スポンと一回抜けるみたいな。それで、そのままそれがプロジェクトタイトルになって、最後までどうしようかなって思ってたんですけど、この物語にこのタイトルがついたら、それがうまく働いてくれるんじゃないかなって改めて思えてきて」

――なるほど、捻り出したものではなく、最初はわりと素朴なところから出てきたタイトルだったんですね。

濱口「そうなんです。基本的に自分が作ってるのは人間ドラマであって、その登場人物1人1人をちゃんと立てていくという話をしましたけど、結局のところ、人間1人1人をちゃんと立てていくっていうことは、善悪のわからないところに入っていくっていうことだと思うんですよね。人間1人1人と向き合った時に、そこにぱっきりした”悪”っていうものも存在しないし、ぱっきりした”善”っていうのも存在しないっていうのが、自分のそもそもの人に対するものの考え方でもあるので。そういう点で、このタイトルとも響き合うように物事が展開していくだろうというのは、書きながら大体の見当はつけていたんですけど。でも、その解釈――高橋とか黛とかも決して悪ではないよね、人にはみんな理由があるよねっていうところに落ち着くと、それはそれでおもしろくないっていうのはあると思ってはいて。なので、このタイトルにはもうちょっと違う働き方をしてもらうように、最後のところはなっているという」

――なるほど、そうですよね。最後のところは…これはネタバレを気にしてというわけではなく、観客1人1人に投げかけられているものだと思うので、こういうインタビューの席で作者の意図をダイレクトにお伺いするものではないような気がしていて。

濱口「そうですね。タイトルも含め、自分が解説して、なにかの解釈に収斂させないことが大事だとは思っています。自分も正直、最初の観客みたいなもので、『こうなるのか』って思いながらやってますから」

――ただ、ちょうど日本では同じ時期にジョナサン・グレイザーの『関心領域』のような作品が公開されたり、あるいは映画の世界の外でも、複数の大きな戦争が起こっているこの時代に、このタイトルやあの結末を通して、やっぱりいろいろ喚起させられるものがありますよね。

濱口「まず基本的に思うのは、誰かを善だとか悪だとか名指すのは、思考停止の結果だということです。もちろんなにかを善で、なにかを悪としないと、社会の運営が成り立たない時というのはあると思います。でも、少なくともそういうものを誰か個人に対して確定できるはずがないとは、フィクションのつくり手としては思っていますね」
■「自分が感じている不安や強迫観念みたいなものが、そのまま作品にも反映されているのかもしれません」(濱口)

――ただ、善と悪の二項対立でなにかを語るのは愚かだとしても――今年はアメリカの大統領選の年でもあるわけですが――アメリカに限らずヨーロッパにおいても日本においても、もはや否定しようのない分断というのが我々の目の前に横たわっている時代だと思うんですね。濱口監督の作品っていうのは、もはや理想としてではなく現実として、いまや世界中の人に観られる前提で作られているわけじゃないですか。

濱口「はい」

――2020年代の半ばに、そういう立場で映画を作ることの、責任とまでは言いませんが、心構えみたいなものっていうのはどの程度あるのでしょうか?というのも、やはり今回の『悪は存在しない』は極めて現代的なテーマを扱った、極めて現代的な作品だと思うんですよ。

濱口「いや、まずなんだろう、“責任”という言葉で映画作りを考えることは難しいですね。宇野さんがおっしゃるような“立場”というのも、その立場がなんなのか自分ではあんまり判然としていないところがあって。この映画も誰が見るのかよくわからず作っていますし。そうである以上、そこでの責任というのも感じようがない。基本的に、『悪は存在しない』はオリジナルではありますけど、ある種、発注された作品でもあるわけです。石橋さんから『こういうのを作ってほしい』っていう発案があって、そのオーダーに最大限応えようとしてやっていって、そこから発展していった作品なので。そして、それは過去の作品もほぼ全部そうとも言える。もし作品になにか“責任”というものがあるとすれば、それは『こういうものを作ってほしい』って言ってくれた人に対して、自分を信頼してある程度のコストをかけてもらった以上、それに応えるっていう。それぐらいなんですよね。だからそんなに広い意識は持っていないし、あんまり持ちすぎると、よろしくないんじゃないかなとは思ってます」

――作家によっては、時代性からできるだけ逃れようとする動きも近年は目立っていて。例えば同時代のアメリカ映画の場合、もう舞台設定自体が現代であることの方がむしろ稀になってきている。

濱口「そうなんですね」

――もちろん、この時代に生きている以上、作家としても、一人の生活者としても、同時代性というのは作品のどこかに反映されてくるものですが。

濱口「同時代性から逃れる…。いや、逃れたい気持ちもあるかもしれませんが、カメラは現実に向けるしかないので。もちろんフィクションのキャラクターであったり、フィクションの場所であったりをこちらは用意するわけですが、大体の場合は現実の場所を借りて撮らなきゃいけないというのが、基本的な制作条件としてずっとある。俳優も、いまこの日本の現代社会を生きている人で、日本の現代社会を生きてる人の感覚を持って撮影現場に入ってくるので、そういうものを全部なくしちゃうと、そこからどう立ち上げ直すのかという問題が出てきます。”現実からできるだけ借りてこなきゃいけない”っていうのは、10年以上前からよく感じてることの一つで、少なくとも自分は、現実から飛躍したものは撮れないという状況の中でずっとやってきたので、そもそも逃れようがないですね」

――アメリカ映画が、例えば60年代や70年代を舞台にできるというのは、製作費の問題もあるかもしれません。

濱口「そうですね、スタジオで現実を完全に再構成できる」

――日本やヨーロッパの作家の多くは、そもそもそういう条件ではなかなか撮れないというのもあるかもしれませんね。

濱口「そうですね、現実をまるっと作り変える体力が――自分も含め日本の映画業界自体に――ないように思うので、そうなると、この現実とどう付き合っていこうかっていうことに基本的にはなってくるんですよね。その現実を完全に排除しようとすると、我々のような製作体制では、あんまりうまく行かないんじゃないかと。なにより、自分が生活の実感やそこでの感情に基づいて映画を作りたいと思ってるんですけど、ごくシンプルにいまこの社会の中で生きていて、映画を取り巻く環境自体がどんどん悪くなっている、シュリンクしているこの状況の中で、自分が感じている不安や強迫観念みたいなものが、そのまま作品にも反映されているのかもしれません」

――この連載に前回登場いただいた三宅唱監督は、「自分が生きてる間は映画終わらないっていう楽観がひとまずある」ということをおっしゃっていて。ただ、自分よりも10歳下、20歳下の作家たちの置かれている状況を考えると、自分が通ってきたようなレールはもはやなくなってしまったので、もっと好き勝手やっていくしかないだろうと。

濱口「はい」

――ただ、実際に三宅監督も、そして濱口監督も、ここまで好き勝手やってきたからこそ現在があるわけで。そういう意味では、次の世代にとっての一つのロールモデルでもあるというか、いろんな可能性を示してきた作家だと思うんですけど。濱口監督の言う“不安”というのは、映画が終わる/終わらないみたいなことですか?

濱口「いや、そういうことではなく。一市民として不安ということです。映画業界に関しては、現状いろんな無理を通してなんとか成立している産業構造自体が、これまでとはガラッと変わってしまうっていうことはいつでも起こり得ると思うんですけど、いまの映画のフォーマット自体がなくなるっていうことは、楽観的かもしれませんけど自分もまったく想定はしてないです。人間が鑑賞に耐えられる時間っていうのが、一般的に極端に短くなっていったら、いまみたいな映画がより成立しづらくなるかもしれないですけど、そこにも限度や、反動があるだろうな、と。だからそれでも映画は残るし、映画館もおそらく残っていくだろうと。結局のところ、やっぱりスクリーンで上映される2時間の映画というのは、映像や音響を体験する上で、既に出ているベストアンサーみたいなところがあると思うんです。率直に言って、これ以上面白いものってやっぱりそんなにないでしょう、という。だとすると、映画体験そのものがなくなることはないし、その快楽というのは、それなりに次の世代にも受け渡されていくんじゃないだろうかと楽観視しています。ただ、いま成立している日本映画の製作条件っていうのも、例えば2~30年前、Vシネマとかでまだあったころともまったく違うわけで。そういう産業構造の変化っていうのは配信の台頭など、どんどん起きていて、それは今後も変わり続けるものだろう、と。問題はそういう変化に耐えられるよう、映画の本質と言うとカタいですが、映画制作の核心みたいなものに自分がどこまで迫れるかということではないかと思っていて、それで試行錯誤してます」

――『偶然と想像』のタイミングでのインタビューでも、小さいチームで作る映画が持つある種の豊かさ、そのおもしろさみたいなものは手放したくないとおっしゃってましたが、今回の『悪は存在しない』もまさにそういう作品です。一方で、『ドライブ・マイ・カー』の世界的な成功以降、比較的これまでよりも大きい作品を撮るチャンスというのも増えていると思うのですが、そのあたりは振り子的な感じでやっていければというイメージなんですか?

濱口「振り子みたいにやれたら、それは一番いいだろうなっていうことは思います。ただ、本当に大きい作品っていうことになると、そもそも自分自身にはそれだけのお金を集める才覚ってのはまずない。そうなると、どなたかが持ってきてくれる企画が必要になってくるだろうと思うんですけど、自分が『これはおもしろくなるな』と思えるものと合致した時にしかそれは実現しないだろうという感じですね。小さい作品は本当にいつでも――いつでもっていうほど簡単なわけでもないんですけど――基本的には自分の覚悟さえあれば始められることなので。どうしても、これからも小さいほうがベースにはなるだろうという気はします。それに、おそらく小さい作品のほうが、あらゆる時代の変化にも強いだろうとは思います」

――先ほどもちょっと触れましたが、その時に、日本映画界への帰属意識というのはありますか? 少なくともこれまでは、日本を舞台に、日本語で映画を撮ってきているわけですが。

濱口「帰属意識という以前に、そもそも映画業界っていうもの自体、自分には未だにちょっとわからないってのが正直なところです。自分がいままで撮ったいわゆる商業映画っていうのは、C&Iエンターテイメントっていう制作会社と、製作委員会幹事としてのビターズ・エンドが主にコンビとなって作っているものです。そこにいらっしゃるプロデューサーの面々っていうのは、自分の制作方法にすごく理解を示してくれたし、やはり日本映画の慣習をある程度伝えつつも、一方で守ってくれたと思うんです。そういう点で自分にとってはすごく頼りになる方たちではあるんですけど。でも守ってもらった分、本当にそこから先の世界は、覗いた経験がないのでわからないというのが正直なところなんですよ。日本の映画業界のメインストリームがどうなっているかっていうのは、自分にとってはほとんどブラックボックスみたいな感覚があるので、そこに帰属意識を持ちようがないというか」

――ただ、今回は演技経験のない方を作品の中心に据えた作品ではありますが、過去にも、そしてきっと今後も、そういうメインストリームで活躍されている役者たちと仕事をすることもあるわけですよね?そういう意味で、製作サイド視点での同時代の国内作品への関心というのもあるかと思いますが。

濱口「それはもう、めちゃめちゃありますよ。…といっても、NHKの朝ドラとかですけど(笑)」

――どメインストリームですね(笑)。

濱口「『ああ、いまはこういう人がいるんだ』っていうことは、朝ドラとか大河ドラマとかを見て思ったりしてます。それぐらいと言えば、それぐらいかもしれませんけど(笑)」

――(笑)。

濱口「だから、国内の大きな作品に対しても格別に拒絶するような気持ちはないですし、よい機会があれば全然関わりたいとも思っているんですけど、単純に…きっとストレス耐性がないんですよ。ストレスがかかるっていうことが予測できることには、よほどの『おもしろそう』っていうワクワク感がない限りは、なかなか踏みだす気になれないってのが実際だと思います」

――それとはまた別のストレスがかかると思いますが、海外で作品を作るという選択肢は?

濱口「それももちろん、機会があればやりたいっていうことは思ってます。外国で映画を撮るというのは、おそらくその国を知る上で最もいい方法だと思うし、やりたいっていう気持ちは常にあります。ただ、そこで問題になってくるのは、今日もここまで話してきたように、自分の演出の土台にあるのは結局のところ、今も台詞なんですよね。この台詞に対する判断の精度が自分の演出を支えているという感覚があるんですけど、外国で演出するなら当然、母国語と同程度の繊細な判断ができなくなることを、どうやってクリアしていくのかというのは課題だろうなと思っていますね」

――濱口監督に取材をしたのにまったくカメラの話をしないのももったいないので(笑)、最後に一つだけ。序盤に巧が車で保育園に娘を迎えに行った後、後部座席にセッティングされたカメラによって、そのままずっと後景が映し出されるシーンがありますよね。もう、あの時点で観ていてものすごく不安になるわけですけど、あの撮影にはどういう意図があったのでしょうか?

濱口「いやあ、それを言葉にするのは難しいですね。置きたかったから、というのが一番ですが、ただ、特に海外で『あなたの映画のPOV(主観ショット)についてなんですが…』みたいに質問されることに少し辟易したところもあり、特に今回の作品では“あらゆるところにカメラはあり得る”ということを、一つの表現としてやってるというところはあると思います。全部カメラの視点です、という」

――Zoomでの打ち合わせシーンを、そのままカットを割らずにフィックスで撮ってるところもそうですよね。あれもかなり大胆だと思ったんですけど。

濱口「はい。あそこもまあ本当に趣味みたいな細かい仕掛けがあるので、そういうことに興味のある方はそこを見ていただきたいですね。一方でそういうカメラがそこにもあそこにもある、みたいなありようを通じて、“自然の目線”みたいに思えるような視点を、作品の中に組み込んでいるっていうところはあります」

――人間が自然を見ているのではなくて、自然が人間を見ているということですね。それは、この『悪は存在しない』という作品の核心にあるものかもしれませんね。

濱口「そうかもしれません。全体として、人間とかその心理や視点とかとは異なるなにかを捉えようというのは、石橋さんからお話をいただいた当初から目指していたことですし、この制作をやったそもそもの理由でもあると思います」

取材・文/宇野維正
 
   

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