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アンドリュー・ヘイは山田太一の物語をどう映像化した? 『異人たち』が描いたテーマを考察

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 その一因には、主人公アダムがゲイだという設定を、物語に強く絡めようという意図があったのだと類推できる。なぜなら、アダムが80年代の時点で中年なのだとすれば、彼が子どもの頃は、まだイギリスで成人の同性愛が違法とされていた時代であったと考えられるからである。

 そんな時代には、現在や80年代よりもさらに同性愛者への差別が苛烈だったことは言うまでもない。アダムと再会することになる父(ジェイミー・ベル)と母(クレア・フォイ)の時間は、二人が死去した時点で止まっている。だから彼らは同性愛者に対して、やはり性的なマジョリティとしての強い偏見を持っているのである。

 そんな二人に対して、アダムは中年になって初めて自分がゲイであることを告げる。両親は動揺し、偏見がより色濃かった時代なりの軽率な言葉を投げかけてアダムを傷つけてしまうのだが、その一方で息子に深い愛情を持っていることも、その演技からは感じさせる。本音をさらけ出して対話していくなかで、父母はアダムへの理解を深め、息子が誤った道に進んでしまったと拒否したり罵倒するのではなく、ゲイであることがアダムという存在の一部であることを受け入れるまでに至るのだ。

 この主人公が経験する孤独感や、対話の端々には、当事者としてのリアリティが反映され、ロジックだけではない、監督の心の奥底からの感情が宿っていると感じられる。家族へのカミングアウトと、そこで生じ得る偏見による対立や、理解への道筋が描かれることで、本作にはオリジナルにはないテーマが生まれることになった。

 山田太一は、1976年から1982年まで放送されたドラマシリーズ『男たちの旅路』で、高齢者や車椅子ユーザーの視点から物語を描き、現在大きな流れとなっている、社会を多様な目線から捉えるというスタンスを、早くから試みている脚本家だといえる。その意味において、性的少数者の精神的な負担を描いた本作『異人たち』は、意外なかたちで山田太一の別の面に接する作品となっていて、感慨深いところがある。

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 大林宣彦監督は、『異人たちとの夏』(1988年)がTV放送されたとき、スタジオで映画評論家・水野晴郎の「なぜ、こういうテーマをお選びになったのですか」という質問に対し、「私たちは目を見開いて生きていますが、ひょいと目を閉じますと、(すぐ周囲に)死んでしまった懐かしい人たちがいるわけです」「映画というのは暗闇のなかで観る夢ですから、せめて映画のなかくらい目を閉じて、“懐かしい、会いたいな”という人たちに会ってもらえたら」と語っている。

 『異人たちとの夏』や本作『異人たち』は、ゴーストストーリー、ある種の怪談として表現されているが、大林監督が言ったように、そんな幽霊という存在自体が、人間の願望が生みだすものだと解釈することも可能だ。そういう目で見れば本作のアダムの経験する怪異は、両親に本当の自分を知ってほしかったという思いや、納得して認めてほしかったという、強い願望の発露だったことが理解できる。多くの人にとって、周囲の理解や承認の欠如が強い心理的負担になるように、アダムもまた、その重圧に苦しんでいるのだ。そして、それはハリーも同様なのである。

 ヘイ監督の過去作で、少年が馬とともに大地を孤独に進んでいく『荒野にて』は、一見すると本作とのかかわりが薄いように思えるが、ヘイ監督が若い時代にアダムの子ども時代のような孤独を抱えていたことを考えれば、『荒野にて』の少年の歩みと、荒涼とした景色が暗示していたものが、いまさらながら強く理解できるところがある。

 本作で強く印象に残るのはラストシーンだ。アダムやハリーたちが、幻想的な映像とともに、それぞれ宇宙の無数の星の一つであることが、やや唐突にだが、示されるのである。これは、同じ思いを抱える孤独な人間が地球上に数多く存在し、それぞれが互いにつながりを求めていることを表現したものだと考えられる。

 ヘイ監督は、山田太一が亡くなる前に、本作を病床で最後まで鑑賞したということを家族から伝えられたそうだ。その頃にはもうあまり言葉を発することができなくなっていたというが、山田太一のこれまでの足跡を考えれば、おそらく彼がこのラストシーンに、自分のこれまでの仕事に重なるものを感じただろうことは、想像に難くない。

(文=小野寺系(k.onodera))

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