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映画作家舩橋淳の「社会の24フレーム」連載 第8回 FRAME #8:まだ見ぬ映画言語のためのアプローチ論(4)  ―Authentic Will (真なる意志)―

cinefil

【ガザにおけるジェノサイド、ロシアによるウクライナ侵攻が一刻も早く停戦となることを願う。】

(前回より続き)

人間は、本音と建て前がある。 
さらに、建て前は何層にも分かれており、本音も何層に分かれている。
人は、仕事場、家庭、友人たちどうしの集いなど異なるシチュエーションで、人格を無意識下でスライドさせチャンネル切り替えをしており、どれが本当の自分なのか、どれが社会的な建て前なのか、建て前⑴なのか、建て前⑵なのか、、、「本音はこれだ」と自分が意識していたことが、実はそうではなくもっと違う本音が腹の底にあったことを何かの機会で気づかされたり。。。人は、社会環境の中で揺れ動き変化し続ける生き物である。(ちなみに作家の平野啓一郎氏はこれを「分人」と呼ぶそうだ。とても興味深いコンセプトである。)

僕自身、自分のことを分かっている体でいてもそれは表面の意識に過ぎず、意識の底には自分が認識すらできていない自己があると思っている。人間とはそういうものであり、フロイトの精神分析を持ち出さずとも、多くの人が自覚症状として思い当たるはずだ。

そんな自覚とともに映画を撮り続ける僕は、生身の人間の多面性を映画でそのままそっくり描くことはできないかと悪戦苦闘し続けてきた。ドキュメンタリーと劇映画とを往復するように創作してゆく中で見出したのが、今まで話してきた役の「生きる意思(=オブジェクティブ)」を俳優の肉体に植え付けてゆく手法、それはStella Adler と彼女を現代化したといって良いJudith Westonのメソッドを、日本の撮影現場に援用していったものだった。僕はそれを、Authentic Will(オーセンティック・ウィル、真なる意志)と名付けた。要約すると、多層に積み重なる人間の本音と建て前ーー意識・無意識の多層性と読み替えてもいいだろうーーをある単純化をもって、できるだけ「本当の人間のあり方」に近づこうとする試みである。

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例えば、日常で仕事相手と打ち合わせする場面を想起して欲しい。

仕事内容の会話をしながらも、それ以外の様々な感情を人間は持つ。
「この人は、いい感じの人だな」とか「話がわかる人だな」など、良好な感触を抱くこともあれば
「せっかちだな」とか「人の話聞いてないな」「嫌な感じ!」とか、後ろ向きなフィーリングを感じることもあるだろう。もしくは前向きとも、後ろ向きとも言えぬ、その間のグレーな感情かもしれない。いずれにせよ、大人であればそれを表情には出さず、仕事を進めるのが社会人であるのだが、ただし、目線の送り方とか表情の機微に、その奥底の感情が微妙に出ることもあるだろう。

たとえば・・・
目が合うときに何も表情に出さないのか、社交辞令的なスマイルをするのか、さらにフレンドリーでくだけた笑みをみせるのか。どうでもよい世間話になったときに、さらりと受け流すのか、積極的に乗っかるのか。体の位置・向きも、相手に正対してまっすぐ話すのか、半身の姿勢で距離を置いて話すのかなど、人間は社会生活上の規範と自分の感情的反応をミックスした形で、言葉に出ない身体的身振りを表している・・・これを演技の一挙手一投足に生かしたいというのが、Authentic Will
なのである。

応用編として一つ例をあげたい。

前回第7回の拙作「桜並木の満開の下に」の同じシーン「山中の道(昼)」を取りあげる。
台本を紹介したこちらのページhttps://cinefil.tokyo/_ct/17533555を参照にしながら読んで欲しい。(ブラウザの二つのウィンドウで別々に表示すると良いと思う)。

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