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新日本プロレスVS全日本プロレス<仁義なき50年闘争史>「長州の心が全日本から離れた鶴田との頂上対決」

アサ芸プラス

 ジャパン・プロレスは1985年11月1日から7日の日程で3回目の自主シリーズ「ニューウェーブ・イン・ジャパン」を開催した。

 当初、全日本とジャパンには「ジャパンは1年間に1週間の自主興行を3回以上に分けて企画し、主催することができる」という取り決めがあったが、これがジャパンの最後の自主シリーズになった。

 6月頃からジャパンが独立の動きを見せたために両団体の関係はギクシャクしたが、9月に関係修復。ジャパンは全日本への配慮から86年以降は自主シリーズを行わないことを約束したのである。

 このシリーズには、8月に新日本プロレスを離脱したスーパー・ストロング・マシン、ヒロ斎藤、高野俊二(現・拳磁)が参加。新日本プロレスの坂口征二副社長と「ハリケーンズは使わない」と約束していた全日本のジャイアント馬場会長は「全日本の選手とは対戦させない」という条件で、ハリケーンズのジャパン参戦を承諾した。

 シリーズの天王山は11月4日、大阪城ホールでのジャンボ鶴田VS長州力の全日本VSジャパン頂上対決。

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 両雄の頂上対決は、全日本VSジャパンがスタートした時から“72年ミュンヘン五輪代表対決”として注目されていた。鶴田はグレコローマン100キロ以上級代表、長州は専修大学在籍だったものの、国籍の関係でフリー90キロ級の韓国代表として出場していたからだ。

 長州が高校時代からレスリングを始めたのに対して、鶴田は大学2年から始めたが、学年では鶴田が1年先輩。この対抗戦当時、鶴田を呼び捨てにしていた長州だが、今は大学時代と同じく「鶴田さん」「鶴田先輩」と呼ぶ。72年5月の東日本学生リーグ戦で中大が優勝した時、反対側のブロックから専大が勝ち上がれば、対決が実現していたが、大学レスリング時代に対戦したことはない。

 ミュンヘン五輪から13年‥‥プロの世界で巡り合った2人は、両者リングアウトなしの60分1本勝負という完全決着ルールで対戦した。

 果たして、試合は序盤から鶴田ペースに。ロックアップからヘッドロック、そしてタックル‥‥という躍動感溢れるファイトが長州の持ち味だが、鶴田はグラウンドに持ち込んだのだ。

 身長で12センチ、体重で15キロ上回る鶴田は、密着して長州の機動力を奪う戦法。ロープを使った攻防が生まれたのは、試合開始から28分が経過してからだった。

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