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デビュー当時のCHEMISTRYから見たレーベルの風景 オーディション番組で夢を掴んだ後、進んできた道【評伝:伝説のA&Rマン 吉田敬 第4回】

Real Sound

 なかなか進まないオーディションスケジュール。そんな中、堂珍に最初に寄り添ってくれたのが、『ASAYAN』のスタッフだったという。

「オーディション中は番組の方がマネージャーさんの代わりをしてくださっていました。僕は番組のスタッフさんたちにまずは愛着がわいていました」(堂珍)

 オーディションが進むにつれて、ソニーミュージックのスタッフも『ASAYAN』のスタッフに混ざり、オーディション会場やロケ現場を訪れるようになっていく。

「松尾潔さんがプロデューサーとして参加することが決まった頃、デビューするレーベルがソニーミュージックだということが分かって。さらにソニーミュージックの人たちが審査員だったことも『ASAYAN』のスタッフに後から聞いてびっくりしました」(川畑)

「いろいろなスタッフの人たちの存在を意識し始めたのは、オーディションメンバーが最後の5人くらいになったあたりからですかね。その中で一番目立っていたのが松尾さんと一志さんでした」(堂珍)

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 敬さんとのファーストコンタクトは、彼らがオーディションを勝ち抜き、CHEMISTRYとしてメジャーデビューが決まった後だった。

「無愛想というか、“業界の人ってこういう感じなんだろうな”というイメージがすごく強かったです」(川畑)

「当時マネージメントのヘッドだった西岡さん(現:ニューカム 西岡明芳氏)は、物腰が柔らかくギャグを飛ばして場をなごませるような印象でしたけど、敬さんは、色のついた眼鏡をかけていて、真面目というか、ギャグを言うような雰囲気ではなかったですね」(堂珍)

 テレビ番組とのタイアップで数々のヒット曲を生んできた敬さんは、その“光と影”をよく知っていた。だからこそ、テレビのオーディション番組出身ですでに世間から大きな注目を集めていたCHEMISTRYの様子を慎重に見極めていたのだと思う。

 敬さんは、その後彼らのデビューシングル『PIECES OF A DREAM』(2001年3月)のリリースイベントが行われる福岡・キャナルシティ博多を訪れた。
 福岡でエリア担当の宣伝マンをやっていたことのある敬さんは、何度もこの地で新人のイベントライブを観た経験があった。
 その敬さんが絶句するほど大人数のファンがイベント会場に殺到。数だけでなくその熱量が凄かったと当時語っていたことを思い出す。

「福岡のイベントが凄かったという記憶はたしかに強く残っていますね。そこで敬さんは僕らのことを“一発屋じゃない”と思ってくれたのかな」(川畑)

「なぜか実家にそのイベントの様子を撮影したVHSのテープがあります」(堂珍)

 敬さんに強烈なインパクトを残した福岡でのイベント。そして彼らのパフォーマンス。
 レーベル内では、2ndシングルに向けてレーベルのスタッフィングを再構築し、本格的に仕掛けていく体制づくりに着手する。一方、彼らに寄り添って支えるマネージメントスタッフがなかなか安定せず、彼らから見えるコアスタッフの風景は変化し続けた。

「チームのメンバーの変化はいい部分もあればリセットされすぎてしまうところもある。一から関係を構築していくことでいい方向に転んだパターンも、転ばなかったパターンもあったのかなと。どれも正解だとは思うんですけど」(川畑)

「僕は担当してくださる人に対してやっぱり愛着というか、愛情みたいなものが毎回あった。だから、担当を外れると聞くのは結構寂しかったです」(堂珍)

 1stシングルがロングヒットする中、レーベルスタッフはA&Rチーフを務める大谷英彦氏を筆頭とした新しい体制が確立され、2ndシングル『Point of No Return』(2001年6月)のリリースに臨む。新曲の発表会は完成したばかりの乃木坂ソニー・ミュージックスタジオにメディア関係者を招いて行われた。
 スタジオライブでのパフォーマンスにさらなる手応えを感じた敬さんは、15秒のテレビスポットでの楽曲の使いどころに強いこだわりを示した。〈夏草が~〉の歌詞で始まる冒頭部分と、〈きっと永遠なんて言葉は~〉の大サビ部分の使いどころを何度も繰り返し聴いて検証し、冒頭部分をチョイスするように指示した姿を思い出す。

「最初はマネージメントスタッフとレーベルスタッフの違いが分からなかった。A&Rもマネージャーもレコーディングに立ち会ってくれて、話す時間も多かった。同じ時間を過ごすということでいえば一緒だと思っていた」(川畑)

「A&Rとマネージャーの違いは、アーティストへの密着度なんだと思いますね。マネージメントは一番近い存在だし、レーベルはCDを売るための人だと捉えていました」(堂珍)

 そんな2人は、プロモーション稼働を通してレーベルスタッフと親交を深めていく。
 特に地方キャンペーンでの印象が強く残っているという。

 「地方キャンペーンで、稼働の際に同行してくれるレーベルのプロモーターの方々の印象が強く残っていて。デフスターは特に個性的な人たちが多かったので、みなさんキャラクターで採用されたんじゃないかと思ってしまうほどでした」(堂珍)

 彼らが言うように、敬さんの方針で、デフスターのエリアプロモーターたちは個性豊かだったし、とにかく若かった。近い世代で一緒に時を過ごしながら親交を深めていったのだろうと思う。当時印象的だったのは、名古屋のプロモーターのアイデアでデパートの催事場に「ケミストリー神社」を建立し、「ケミス鳥居(とりい)」を作ったことだ。川畑くんと堂珍くんが面白がって鳥居の前で撮影した写真がスポーツ紙のアタマ(芸能欄で一番大きく掲載)になり、全国ネットのテレビの情報番組で取り上げられたこともあった。

 敬さんは常にエリア会議に出席し、自ら若手を鼓舞した。敬さん自身も福岡のエリアプロモーターを経験し、そこで自由な発想で宣伝のアイデアを具体化していったことが、次のステップに繋がっていった。かつての敬さんのように、若いレーベルスタッフたちがCHEMISTRYというアーティストとともに、成功体験を重ねていく風景がデフスターの推進力になっていったのだと思う。

■「夢を掴んだ後、長く活動していくためにはどうしたらいいのか。そこからが勝負」

 3rdシングル『You Go Your Way』(2001年10月)、1stアルバム『The Way We Are』(2001年11月)がリリースされ、年末には『NHK紅白歌合戦』に初出場。怒涛の日々は続いたが、この頃にはレーベルスタッフに続き、マネージメントスタッフも定着する。コアスタッフが安定し、CHEMISTRYの中にも「今後自分たちはこうしていきたい」というような思いが募っていったのだろう。

 そんなある日、CHEMISTRYのほうから、スタッフを招集し、今後自分たちがどうしていきたいかを伝える会議が催されたという。

「やっぱり何か変わろうというか、成長しようとしていたのか……お互い熱い気持ちをもっていたので、とにかく納得いくまでやり合いましたね」(川畑)

「熱い気持ちを持っているという意味ではいいんですけど、その分衝突してしまうという紙一重な部分がありました」(堂珍)

 彼らがスタッフを良い兄貴分として何でも言い合える環境はプロジェクトの風通しを良くしたのだと思う。2ndアルバム『Second to None』(2003年1月)に向けて、CHEMISTRYのプロジェクトはさらに活性化していった。マネージメントチームの安定は、彼らが、ライブアーティストとして土台を築く流れとシンクロした。ライブハウスツアーからスタートし、ワンステップずつ、しっかりホールコンサートを重ねていく。舞台監督を務めた本間律子氏によるライブ演出も、より彼らのアーティスト性を際立たせていく。

 そんな中、リリースされた5枚目のシングル『FLOATIN’』(2002年7月)の表題曲は、シングル初のアップテンポナンバー。ミドルテンポからバラードのイメージが強いCHEMISTRYが楽曲の幅をみせる絶好の機会だった。僕らレーベルサイドは、この楽曲をあえてノンタイアップで勝負することにこだわった。どこまでアーティストに地力がついたか、そして僕らのマンパワーでどこまでこの楽曲をメディア露出することができるか、特にラジオのオンエア回数にこだわってプロモーションした。結果、4作目のオリコンシングルチャート1位を獲得。今では、彼らのライブを盛り上げるのに欠かせない定番曲の一つとなっている。

 2ndアルバム『Second to None』の成功を受け、いよいよ初の日本武道館公演に向けた全国17カ所27公演のツアー『CHEMISTRY 2003 Tour “Second to None”』が始まる。そのツアー中の地方公演に敬さんが彼らを訪ねた。

「ライブ終わりで3人で食事に行った記憶があるんですね。今後どうやっていくかという話をしました」(川畑)

「敬さんとしっかり話した印象はそこしか逆にないかもしれないです」(堂珍)

「その時、本当に一番深く話したと思うんですよね。現場のスタッフのみなさんと違ってなかなか会うことがなかったので、そういう食事も何度もあったというわけではなくて。もちろんレーベルのオフィスに行けば顔を出させてもらってお話することはあったと思うんですけど、最初のボスだったから今みたいに、“どうも”みたいにはいけてなかったと思うんですよね」(川畑)

 ちょうどその頃は、CHEMISTRYの今後の体制について社内が揺れている時だった。敬さんは、サシで二人と話すことで、彼らの置かれている状況や心境を感じたかったのかもしれない。

「松尾さんがプロジェクトから離れることについての話でした」(堂珍)

「そういうタイミングだったと思います。切り替わりというか、また一歩次に進んでいくというような話をしたんでしょうね」(川畑)

「オーディションの頃から松尾さんは、僕らにとって親のような、兄貴のような存在でした。なぜ離れることになったかをいろいろ話してくださったと思うんですけど、僕らもまだ若かったし、いまだにわかっていないところも多い。当時のスタッフの中で様々な意見があったというのも聞いてはいましたが……」(堂珍)

「3人で直接話すことで、前に進もうとしたんだと思うんですけどね」(川畑)

 CHEMISTRYプロジェクトにとって、大きな決定だった。敬さんは、最終的にCHEMISTRYが“生みの親”であるプロデューサー・松尾潔から独立し、自分たちの力でプロジェクトを前に進めることで、アーティストとしての自己を拡充させるセカンドフェイズを作っていくことが、その時、選ぶべき道だと判断したのではないか。

 しかし、敬さんはその4カ月後、デフスターを去り、ワーナーミュージック・ジャパンに移籍、代表取締役社長に就任する。

「もちろん当時寂しい思いもあったんですけど、やるしかないっていうのが一番でしたよね。僕らはずっとこのままやっていくわけではないんだなっていう」(川畑)

 彼らから見える風景は、また変化していった。残ったスタッフ、新しく加入したスタッフたちとともに“セルフプロデュース”という次のフェイズを歩むことになる。

「セルフプロデュースといっても、スタッフを通してどう自分たちのやりたいことを実現させるかということだと思うんですよね。改めて制作に直に関わって考えられる人の存在が重要だなと思うきっかけにもなったかもしれない。どういう人に曲を作ってほしいか、どういう風に自分で詞を書くか、どういう風に集まった曲の中からチョイスしていくかを考えていく作業なので。デモを2000曲ぐらい集めて、それを全部聴いて人気投票して決めていくようなこともやっていました。今思えばすごく贅沢な時間でしたね」(堂珍)

 3rdアルバム『One×One』(2004年2月)、4thアルバム『fo(u)r』(2005年11月)を経て、デビュー5周年を迎えた2006年、初のベストアルバム『ALL THE BEST』をリリースすることになる。

「デビューして5年目にベストを出したじゃないですか。あのアルバムでやっと振り返れたみたいなところがあるんですよ。それまでが本当にあっという間で。20代はほぼCHEMISTRYとして過ごして、特別な場所で刺激も多く、いろんなことが全部初めてでしたから。最近思ったんですけど、当時担当してくれていたヘアメイクさんの年齢が1個とか2個違いだったんですよね。他のスタッフさんも含め、勢いのある若い世代を中心にプロジェクトを動かしていた感じが特殊だったなって。むしろ“今”っぽいことを俺らはしていたんだなと」(川畑)

 “今”というワードが出たところで、“今”のJ-POPの一つの潮流がオーディション番組出身アーティストであり、その元祖ともいえるCHEMISTRYがそのことをどう思うか、最後に聞いてみたくなった。

「僕らの頃と比べるとスキルが上がりましたよね。上手ければいいわけではないところは僕らの頃と変わらないと思いますけど。とんでもないスキルを持っている子が増えたなと。歌はもちろんダンスもすごくて。YouTubeやSNSを駆使してよく研究していますよね。オーディションを見ていると楽しいです」(川畑)

「歌が上手い子も多いですけど、意外性のある人は少ないというか、歌い方が似ていると感じることはあるかもしれません。夢を掴んだ後、長く活動していくためにはどうしたらいいのか。そこからが勝負だと思います」(堂珍)

 オーディション番組出身という自らのキャリアを客観視しながら、現在のシーンを見つめる二人の姿はとても頼もしく眩しく思えた。

 このインタビューを通じて、僕らが離れた後のCHEMISTRYの進んできた道が彼らの言葉から垣間見えた。各自のソロ活動を経て2017年に再始動した際には、彼らが自らの意思でプロデューサー・松尾潔との再会を選択し、現在に至っている。この20年、彼らは自身で考え、方向性を模索しながら、現在の位置に辿り着いているのがよくわかった。

 昨年、2月23日、彼らのデビュー20周年アニバーサリーとして開催された、日本武道館ライブを思い出す。「PIECES OF A DREAM」から始まり「PIECES OF A DREAM」で終わる集大成ともいえるセットリストの中でも14曲目の「FLOATIN’」から始まる後半のブロック、会場のボルテージは最高潮に達していた。それを肌で感じながら、たった2年半だったけれども、彼らとともに時間を過ごせたことを誇りに思った。(続く)

(文=黒岩利之)

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