羽田航空機衝突事故で見えた「除け者」成田空港の重要性 有事でこそ見えたその“存在意義”とは

羽田空港で発生したJAL機と海保機の衝突事故。羽田の滑走路が閉鎖され欠航が相次ぐなか、価値を発揮したのが、「遠い」など不評も多かった、成田空港です。

羽田の緊急事態のバックアップで成田が暗躍

  東京・羽田空港で2024年1月2日、JAL(日本航空)のエアバスA350-900(機番:JA13XJ)で運航されていたJL516便と、海上保安庁のボンバルディアDHC-8-300(機番:JA722A)が衝突事故しました。その結果、事故現場となった羽田空港のC滑走路は閉鎖を余儀なくされています。

 滑走路閉鎖は、JAL・そしてANA(全日空)の東京便に多数の欠航を発生させました。そのようななかで密かに価値を発揮したのは、長年“不要論”や“遠い”など言われ続けてきた成田空港です。

 1月2日の羽田空港でJALのA350-900と海保のDHC-8-300が衝突した事故で、JALとANAは8日に滑走路が再開されるまで成田空港から臨時便を飛ばしました。羽田空港は3本の滑走路しか使えず、運輸安全委員会の調査と警視庁の現場検証、その後の残骸撤去により、3連休に入った6~7日も国内線390便が欠航したためです。

 このため、たとえばANAでは、5~7日の搭乗者数が多い国内幹線の福岡、新千歳(北海道)、伊丹(大阪)便で、成田発の臨時便37便が設定されました。また、滑走路閉鎖直後も羽田発着を予定していた一部便は成田へと代替着陸を実施するなどしています。

こういったことで、東京都心から60km以上離れ、遠いと嘆かれ続けた成田空港も、羽田空港とならぶ「首都圏2空港」として、羽田の機能が減じられた際は活用できることが明らかになっています。

 成田空港は、建設が決まった1966年から平成の中頃までにかけて、地域住民の声をおろそかにした建設決定への怒りもあって不要論が起き、羽田空港が沖合に移転されて拡張された際には、国際線の羽田空港への回帰が盛んに唱えられました。

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「いざというときの成田」!その理由とは?

 加えて、成田空港は1978年の開港から24年後にようやく2本目の滑走路の供用が始まったため、それまでは遠いうえに滑走路が1本しかなかった、“黒歴史”があります。さらに、2010年に入り羽田空港で4本目の滑走路の供用が始まると、海外のFSA(フルサービスを行うエアライン)と呼ばれる航空会社は“羽田シフト”を取り、ここでも成田空港の“地盤沈下”が懸念されました。

 現在は、LCC(格安航空会社)の誘致に成田空港は成功し、「羽田と成田で各々年間50万回の年間発着数を実現する」を合言葉に、羽田と成田ともに整備は進められていますが、いつまた「成田不要論」が再発するか、関係者は内心穏やかではないと聞いています。

 実際、多くの乗客は、飛行時間が1時間から1時間半程度の場合は都心と往復する際に成田空港を使いたいかという問いに、頷くことはできないでしょう。しかし、今回の事故のような場合は、立派に国内航空網へ役立つことがわかりました。また、4000mある成田空港のA滑走路は、羽田空港をいったん離陸した長距離国際線が、「テクニカルランディング」と呼ばれる燃料の追加給油にも役立ちました。

 加えて、元日に能登半島を襲った震度7のような地震が都心で起きれば、東京湾を埋め立てた羽田空港は液状化の恐れがあります。成田空港も被害は免れないかもしれません。しかし、成田は内陸空港のため、復旧は羽田から早い可能性も高く、都心へ救援物資を集める助けになります。

 それゆえに、首都圏への空路アクセスを絶やさぬよう、羽田・成田の首都圏2空港体制はこれからも維持する必要があると、筆者は考えています。