昭和の名残を店内のあちこちに残す「純喫茶」。そこは、一朝一夕では生まれない趣あるレトロな空間であり、その土地で暮らす人々の営みに身を浸せる場所でもあります。ひとたび足を踏み入れれば、新しい気付きに出合えるだけでなく、たとえ純喫茶に馴染みがなかったとしても、どこか懐かしさを覚えるような、不思議で奥深い魅力を持っています。
 
そんな純喫茶の世界の入り口に立つべく、これまでに数千軒の純喫茶を巡り歩いてきた難波里奈さんに、純喫茶の多様な魅力に出会える、選りすぐりのお店をご紹介いただきます。異なる個性が光る4つのお店をきっかけに、まだ見ぬ純喫茶への興味の扉が開くかもしれません。

※価格は税込み表記です。

今回の旅人:難波里奈さん

東京喫茶店研究所二代目所長。ひたすら純喫茶を訪ねる日々を過ごす。「昭和」の影響を色濃く残すものたちに夢中になり、当時の文化遺産でもある純喫茶の空間を、日替わりの自分の部屋として楽しむようになる。ブログ「純喫茶コレクション」から始まり、純喫茶にまつわる書籍は12冊となる。最新著書としては2023年8月発売『純喫茶とあまいもの 名古屋編』(誠文堂新光社)。純喫茶の魅力を広めるためマイペースに活動中。

Instagram:@retrokissa2017
X(旧Twitter):@retrokissa

旅をしよう、と思うとき、そこにはいろいろな目的があると思います。歴史的建造物、おいしい郷土料理、壮大な自然……。わたしがどこかへ出掛ける主な理由は、「まだ知らない純喫茶に入りたい」からです。

コロナ禍を経て、営業時間が短くなった純喫茶も増えたため、旅先では確実に訪問できる時間の余裕がほしいところ。電車や車でのんびりと向かうのもいいのですが、遠い場所ならば到着までの時間をぐっと短縮し、より長く現地で楽しめる飛行機の旅が便利です。

到着したらまず街にある純喫茶へ足を運ぶのがわたしの旅の定番。そこに暮らす人たちは誰よりもその街を知っているエキスパートですから、旅の始まりに大きなヒントをくれるのです。

まるでフルコース。テーブルいっぱいに広がるマスターのおもてなし:洋燈(鳥取県)

2023年の6月、初めて鳥取県の米子市を訪れました。1969年創業の「洋燈」がこの街に行ってみたかった理由のひとつ。シンプルな外観と曇った窓ガラス越しでは店内の様子が見えないため、一層期待が膨らみます。扉を開けた瞬間、目が合ったマスターは「いらっしゃい」と声を掛けてくださるも、大きなカウンターの中でとても忙しそう。

洋燈の外観

席に腰を下ろして顔を上げると、壁に貼られたモーニングメニューが目に留まりました。AからNまで、14種類の豊富なバリエーションを知らせる文字が並んでいて、毎朝来たとしても飽きがこなそうです。

店内をぐるりと見渡すと、ゲーム筐体(きょうたい)のテーブル、時をかけて成長したコーヒーの木の鉢植え、「珈琲は、瞬間の芸術です。」と書かれたプレートに差し込まれているサイフォンの上部など、味わい深いものがたくさん。

迷った末に注文した「たまごサンドセット」(1,000円)は、熱々のたまご焼きが挟まれたトーストされたパンが3切れ、まるで1日分の野菜量かと思われるほどボリュームのあるサラダ、一切れのメロン、毎朝105個ずつ作るという手作りのプリンとアイスクリームがのった珈琲ゼリー、さらに珈琲までついてくるという豪華さです。思わず、この価格でいいのか心配になって尋ねてみると「全部1人でやっているからできることだね」とあっさりしたご回答。

たまごサンドセット

白いシャツとベストに身を包み、えんじ色の蝶ネクタイがよく似合うマスターは、かつては違う業種の仕事をされていたようですが、こちらを始めて54年もの月日が経過したということは天職を見つけられたのかもしれません。元日以外休むことなく、毎朝6:00から18:30まで営業しているというスタイルは誰もが真似できることではなく、頭が下がります。

洋燈のマスター

洋燈

住所:鳥取県米子市富士見町2-110アクセス:出雲縁結び空港からリムジンバスに乗車→「JR松江駅」で下車(約35分)→「松江駅」からJRの電車に乗車→「米子駅」で下車(約26分)→「米子駅」からバスに乗車→「高島屋・公会堂前」で下車(約7分)→徒歩で洋燈(約2分)電話:0859-32-3870営業時間:6:00~18:30

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ゆらゆら泳ぐ魚たちを横目に、手焼きホットケーキを待つ時間の幸せ:不二家(愛媛県)

愛媛県を訪れたのは10月。数年前に出掛けた香川県と高知県がとても素敵で、残りの2県にも行ってみたいと思っていた四国。中でも、長い間憧れていた純喫茶は愛媛県の今治市にありました。

店名は「不二家」。1階と2階で色の違うひさし、入り口を覆うように吊るされている生い茂った植物たちが特徴的です。看板には「純喫茶」の文字、のれんの向こうには緑色のカーペット上に置かれた味のあるサンプルケース、半屋外の空間にも応接室のような一部屋が。

店内に一歩踏み入ると、そこにははっと息をのむような美しい空間が広がっていました。窓の外に小さな魚たちが揺れる様子を眺められる川沿いの席は列車のボックスシートのようでロマンチック、エキゾチックな壁紙と大きなシャンデリアの光に包まれるような奥の席……。どちらに座ろうか迷ってしまうほど。

いたるところに植物が飾られ、それぞれ違ったデザインの照明が静かに灯っています。

こちらの人気メニューは、注文ごとに手焼きされるホットケーキで、厨房近くにはマダムの娘さんが作ったというフェルトでできたホットケーキの飾りも。細部まで興味津々の造りのなかで特に目を惹いたのは、後ろの席との仕切りとして頭部のところにつり下がっていた木材です。

「(創業)当時は、海へ行くと船の廃材とかが落ちていてね。父が拾ってきては磨いて飾っていたの」とマダムが教えてくださいました。唯一無二の空間を作り上げるための創意工夫でこんなに素敵なものになるのだ、とその発想の豊かさに気付かされます。座る席ごとに見える景色が違うため、たった一度の訪問ではこちらの魅力を語ることはできません。近いうちにまた訪れたい、と強く思った一軒でした。

不二家

住所:愛媛県今治市黄金町1-1-11アクセス:松山空港からリムジンバスに乗車→「JR松山駅」で下車(約15分)→「松山駅」からJR予讃線特急に乗車→「今治駅」で下車(約38分)→徒歩で不二家(約16分)電話:0898-31-3848営業時間:10:30~17:30定休日:水曜