ルーツは95年前!? 寝台列車歴50年超の「出雲」 電車になって25年 この先どうなるのか

寝台特急「サンライズ出雲」は、併結されている「サンライズ瀬戸」と共に日本で唯一の定期寝台特急です。寝台特急となってから約半世紀ですが、そのルーツをたどると95年。「出雲」の長い長い歴史について紹介します。

初めは準急407・408列車

 東京~出雲市間を結ぶ寝台特急「サンライズ出雲」。併結運行される「サンライズ瀬戸」と共に、国内唯一の定期夜行列車として運行されています。この「出雲」と「瀬戸」は、「列車としての性質がほぼ変わらないJRの愛称」としては日本一長い歴史を持ちます。

 国鉄・JRの列車名は、1929(昭和4)年に当時の鉄道省が東京~下関間の特急列車への愛称を公募し、「富士」「櫻」と名付けたのが始まりです。戦前の列車愛称はこれらに加え、超特急「燕」と特急「鷗」だけでした(各地域で独自に命名された事例を除く)。

 太平洋戦争後の優等列車廃止で一旦消滅した愛称ですが、戦後の1949(昭和24)年に復活します。この時は特急だけでなく、急行と準急にも愛称が付けられ、急行「銀河」と準急「いでゆ」が登場。その2年後の1951(昭和26)年に「出雲」と「瀬戸」も登場しました。

 より古い愛称で残る「さくら」「つばめ」(新幹線)や「銀河」(臨時列車)とは列車の運行区間や性質が異なるので、「出雲」「瀬戸」は東京~地方都市間を結ぶという運行目的を守り続ける意味で、最古の列車ともいえるでしょう。

 なお列車としての「出雲」の歴史はさらに古く、1928(昭和3)年に、大阪~米子・浜田間を結ぶ準急407・408列車から始まります。同列車は山陰本線・福知山線を走る初めての速達列車でした。

 1935(昭和10)年、407・408列車は急行に格上げされ、401・402列車となります。運行区間は大阪~大社(現在は廃止)間に変更されています。合造車ながら、2等車(現在のグリーン車に相当)と和食堂車も備えていました。

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「瀬戸」とはすでに蜜月

 太平洋戦争で普通列車化された後、1947(昭和22)年に準急へ返り咲き、1951(昭和26)年11月25日に再度急行(701・702列車)となり、運行区間も東京~大社間に変更されます。今日の「サンライズ出雲」まで続く、東京と出雲の直通列車の始まりです。

 この急行701・702列車は、運行開始1週間後に「いずも」と名付けられます。併結している東京~宇野間の急行にも同時に「せと」と名付けられ、現在に続く両者の縁を感じさせます。

 運行開始時点では、東京~大社間は3両(2両という資料もあり)編成で、2等車と3等車を連結。9両編成の「せと」と併結していました。「いずも」は途中の大阪駅で3両増結し、大阪~大社間は6両編成だったようです。

 1954(昭和29)年より編成の一部が浜田行きとなり、東京~大社・浜田間を結ぶ列車となります。東京からの車両が大社に直通し、大阪から増結された車両が浜田に向かったようです。

 その後1956(昭和31)年に急行「せと」との併結を取りやめ単独運行となり、愛称も漢字表記の「出雲」となります。この際、2等寝台車と3等寝台車が2両ずつ連結されるようになりましたが、寝台車の連結は東京~大阪間のみで、座席車だけが大社と浜田に直通していました。それでも、東京~出雲今市(現・出雲市)間で9両編成を組み、直通需要が増加していたことがうかがえます。

 1961(昭和36)年からは福知山線を通らずに山陰本線経由となります。この時に下り列車は、東京~名古屋間で南紀観光団体専用列車と、上り列車は京都~東京間で急行「金星」と併結。あわせて東京直通列車にも1等寝台車(現在のA寝台車に相当)と2等寝台車(現在のB寝台車に相当)が連結されました。