■高橋さんには、ただただ感謝、感謝、感謝! by星野一義
●元祖日本一速い男・星野一義から、日本一のスーパーレジェンドレーサー・国さんへ
国さんお別れの会には、かつて戦ったライバルたちも多数、献花に訪れました
2022年3月16日、82歳でお亡くなりになったレジェンドレーシングドライバー・高橋国光さん(※正確には「高」ははしごだか、「国」は旧字体)。
国さんを偲ぶ「お別れの会」が行われた11月21日(月)(東京・ウェスティンホテル東京)には、かつて同じステージで戦いライバルだった往年のレーサーの方たちも多数、献花にかけつけました。
フォーミュラ、GT、GC、JTCC…数々のステージでライバルだった高橋国光さんと星野一義さん
元祖日本一速い男・星野一義さんも、そのおひとりです。
1970年代~90年代はドライバー同士として、その後は同じステージを戦うチーム監督同士として、それはそれは語り尽くせないほどの物語があることでしょう。
●まずは怒られ…!
お別れの会会場に飾られた、国さん・日産ワークス時代の思い出の数々
高橋さん(※星野さんは「国さん」とは呼ばず、常に『高橋さん』とおっしゃっていました)との一番の思い出は、1970年に日産ワークスドライバーになって一番最初のテストの時だよね。
星野さん、1970年筑波のレースにて
その日、夕方5時にテストが終わり、先輩の北野元さんや都平健二さんはじめ、みんな早々と着替えていたのよ。だからボクも着替えちゃっていいかな!?
と思ったら、国さんだけが15分ほど延長してテストを続けているんだよね。確かクルマはターボ・バイオレットだったと思う。
星野さん、若手時代
だからさ、「先輩がまだ走っているのに、一番若造のオマエが着替えるなんてなんてことだ!」って怒られたのが、最初の思い出だね。
●2輪ライダーで活躍する高橋さんに憧れて、ボクもこの道へ
世界GPで国さんが乗ったHONDA RC162もお別れの会会場に飾られていました
ご存じのように、高橋さんは2輪ライダーから始まって4輪ドライバーへと転向していったんだよね。
その2輪時代、1958年にレースデビューした高橋さんはその後、日本から海外へと戦いのステージを移した。
世界GPの日本人初優勝が国さん!
そして1961年、ホンダのワークスライダーとして挑んだ西ドイツGP(※当時)で高橋さんが250ccクラスで優勝! 日本人が海外のグランプリレースで勝ったのは、もちろん初めて。その活躍を観たことから、ボクは高橋さんに憧れてこの世界に入ったんだよ。
1961年西ドイツGPで初優勝の国さん
あのGPレースを観ていなかったら、ボクは東大を卒業して今頃は政治家になっていたんじゃないかな(笑)!
そう、高橋さんの活躍を観ちゃったおかげで、今はボクもレーサー!
●2輪ライダーから4輪レーサーへの道筋を作ってくれたのが国さん
国さんお別れの会に献花に駆け付けた星野一義さん
高橋さんは、日本のモータースポーツの元祖だよね。ボクも高橋さんと同じく、元々はオートバイ上り。2輪ライダーから4輪のプロレーサーへの道筋を作ってくれたのが高橋さんなんだよ。
そういう流れを作ってくれて、ボクのところにも、日産車に乗ったこともないのに「ちょっと乗ってみて!」って。それで、ボクも日産とのワークス契約ができた。
オートバイの人は、タイヤの本数が2本から4本に増えただけで、すぐその場で速い…ということを、高橋さんや北野さんが先陣を切り、そのコースを全部作ってくれた。そういう意味でも、すごい感謝している。
感謝、感謝、感謝!
星野さん、1975年、FJ1300筑波にて。4輪レーサーへの道筋を国さんは示してくれた
国さんは82歳までレースの世界ができて、マシンとレースにずっと触れ合って、戦ってきた。
ボクはF3000を1996年で、GTを2002年に引退。今はマシンとの戦いから、人間との戦いになっているけど、本当は一番イヤな仕事なんだよね。
だけど、国さんは80歳超えてもマン&マシンと戦う人生に関係してこれたんだからね。
ボクはもう本当、高橋さんは憧れた人だから。高橋さんこそ本当のスーパースターだよね。お疲れ様でした。
今のレーシングドライバーが憧れた星野一義さん、その星野さんが憧れ、背中を追った高橋国光さん。短い時間でしたが星野さんからお話を伺えて、なんだかとってもジーンときてしまいました。
(語り:星野 一義/文:永光 やすの/画像:AUTOSPORT誌、Racing on誌、永光 やすの)