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30年前、アイルトン・セナが岡山でベネトンへの“疑い”を強めた日:1994年F1パシフィックGP

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30年前、アイルトン・セナが岡山でベネトンへの“疑い”を強めた日:1994年F1パシフィックGP(C)motorsport.com 日本版
 TIサーキット英田(現:岡山国際サーキット)で行なわれた1994年のF1第2戦パシフィックGPは、輝かしいキャリアを誇るアイルトン・セナにとって最も短いレースのひとつだ。彼のレースはスタートから数百メートル、1コーナーのサンドトラップの上で終了したのだ。

 あれから30年の月日が経った。このレースは、ウイリアムズのセナがライバルチームのベネトンへの“疑い”を強めたレースでもあった。

 1994年、セナはマクラーレンから前年王者のウイリアムズに移籍。しかしハイテク装備が軒並み禁止された影響もあり、セナはマシンの扱いに手こずっていた。そして迎えた開幕戦ブラジルGPでセナはポールポジションを獲得するが、レースを制したのはベネトンのミハエル・シューマッハー。ただベネトンには、禁止されていたトラクションコントロールやローンチコントロールを搭載し、使用しているのではないかという疑惑が浮上することになる。そして第2戦の舞台は日本だった。

 セナは岡山で、通算64回目のポールポジションを獲得した。当時の予選は2日間かけて実施されていたが、セナは初日の金曜日に最速タイムをマーク。一方で2日目は路面コンディションが悪く、リボルバーコーナーでスピンを喫するなど、タイムを上げることができなかった。

 セナのチームメイトであるデイモン・ヒルも、同じコーナーでスピンした。ヒルは2日目の一番時計であったが、初日のベストタイムからは1秒以上遅かった。

 当時、セナはスピンについて次のように語っていた。

「最初に乗った時のフィーリングは良かったし、エンジン含め全てが問題なかった。それなりのラップタイムでグリップもあったから、(スピンの際)何が起こったのか正直分からない。僕たちが2台ともそうなったのも不思議だし、マシンが良かったからこそ理解できない」

「コーナーの進入も良かったし、あのコーナーへは週末を通じて良いポジションをキープしていた。何も問題ないはずだったんだ。ガッカリだし悔しいけど、明日じゃなくて今日起きてくれて良かったよ!」

 一方予選2日目をノータイムで終えたシューマッハーは、セナからポールを奪うチャンスは得られなかったものの決勝に向けて楽観的であり、こう語っていた。

「コースの状況が良くなるのを期待して最後まで待っていたけど、いざコースに出てみると、オイルが落ちていて速く走ろうとしても意味がない状況だった。セットアップを改善していただけに残念だった」

「でも少なくともグリッドの最前列からスタートできる。セナとのギャップはブラジルよりも縮まったし、良いセットアップが見つかったから明日のレースが楽しみだよ」

 そして迎えた決勝レースで、シューマッハーはスタートで抜群の蹴り出しを見せることになる(これもベネトンの疑惑に拍車をかけることに)。セナが牽制しようと偶数グリッド側に進路を変えようとする頃には、既にシューマッハーが前に出ていた。

 そしてセナは、1コーナーの進入に向けてシューマッハーにはアタックせず、シューマッハーの後ろに回り込む選択をした。もしかするとこれが運の尽きだったのかもしれない。セナはマクラーレンのミカ・ハッキネンに追突される格好となり、コーナー中央でスピンしたのだ。

 グラベルに横たわったセナにトドメをさす形になったのは、ジャン・アレジの代役としてフェラーリから参戦していたニコラ・ラリーニ。ラリーニは混乱の中で避けきれず、セナの横っ腹に突っ込んだ。これでセナは右フロントサスペンションにダメージを負い、復帰は不可能となった。

 セナはこう語っていた。

「スタートは普通だったけど、素晴らしいものでもなかった。ホイールスピンが多すぎて、ミハエルが前に出たんだ。1コーナーに向けてはオーバーテイクを仕掛けることもできたけど、リスキー過ぎたので2番手にとどまることにしたんだ」

「それでコーナーに向かったら、ミカが後ろからぶつかってきて僕はコースアウトした。そして後続のマシンもスピンしたりして、ラリーニが僕にぶつかった。それでリタイアすることになった」

 セナとのアクシデントについて、1993年にマクラーレンでチームメイトでもあったハッキネンは「アイルトンに当たってしまったのは残念だけど、彼の減速は遅く、それは前のミハエルも同じだった。僕は避けることができなかったんだ」と語っていた。

 セナにとっては不幸なことに、このアクシデントは赤旗再スタートになることもなく、マーシャルによってすぐに処理された。

 セナはすぐにピットには戻らなかった。ラリーニと言い合いや乱闘になることを恐れてやってきたチームマネージャーのイアン・ハリソンに出迎えられ、しばしの間コースサイドでレースを見守ることにしたのだ。

 ハリソンは後に、この時のセナは「ベネトンが何か不正を働いていることを確信していた」と語っている。

 最終的にベネトンは、シーズン中にトラクションコントロールを使用していた可能性があるとして、FIAから調査を受けることになる。そしてベネトンのソフトウェアにはローンチコントロールシステムが隠されていたことが発覚したが、チームはテスト以外ではアクセスできないものだと主張。結局チームがレースウィーク中にそのようなシステムを使用したことは立証されなかったため、罰せられることはなかった。

 パシフィックGPの決勝レースは、1周目でハッキネンを突き離したシューマッハーが独走モードに。ハッキネンはギヤボックストラブルでリタイアし、2位にはフェラーリのゲルハルト・ベルガーが入ったが、シューマッハーはそのベルガーに1分15秒もの大差をつける圧勝劇で開幕2連勝を飾った。

 レース後にシューマッハーは次のように語っていた。

「ポールポジションを獲れなかったのは少しアンラッキーだったけど、レース向けのセットアップが良いことは分かっていた」

「もちろんスタートが重要なのは明らかだった。グリッドの汚れている側からのスタートだったけど、僕は少しでもそこが綺麗になるようにできることは全てやった」

「スタートに関しては色々と試していたけど、それがうまくいった。1コーナーへの進入にかけてセナを出し抜くことができた。そしてミラーを見たら、彼がコースアウトしているのが見えた。レースが中断になるんじゃないかと心配したけど、1周目を終えて赤旗が出ないのを見てホッとしたのは正直なところだ」

「それからというもの、僕にかなりの勝機があることが分かった。それは単に一番のライバルがいなくなったからではなく、ベネトン・フォードが本当に優れていたからだ」

 その2週間後に行なわれたのが、あの忌々しいイモラでのサンマリノGPだ。セナがそこで命を落として、もうすぐ30年が経とうとしている。
 
   

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