兄弟には藤原頼宣(よりのぶ)、藤原隆佐(たかすけ)、明懐(みょうかい。出家)、儀明(ぎみょう。出家)、藤原賢子(けんし/かたいこ。大弐三位)、女子(藤原道雅室)がいます。
長保2年(1000年)に主殿権助(とのものごんのすけ)となり、翌長保3年(1001年)には天皇陛下の側近である六位蔵人(ろくいのくろうど)に補されました。
熱心な働きぶりが評価されたのか、寛弘2年(1005年)には蔵人式部丞(~しきぶのじょう)に昇進します。
寛弘末期に従五位下と叙され、蔵人大夫(くろうどのかみ)となりました。
この頃、藤原道長の近習として仕えてもいます。
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治安3年(1023年)ごろに皇后宮大進(こうごうぐうのだいじょう/だいしん)となり、後一条天皇の皇后・藤原威子(いし/たけこ)に使えました。
治安4年(1024年)には正五位下と昇進し、その後に主殿頭(とのものかみ)を経て長元3年(1030年)には正四位下となります。
のちに左京大夫を務めたほか、越前(福井県)・筑前(福岡県)・備中・備前(いずれも岡山県)の4ヶ国で受領(ずりょう)を歴任しました。
藤原隆光の没年は不詳。2人以上の妻との間に六男一女を授かります。
【藤原隆光の子女】
- 藤原隆経(母親:家女房)
- 藤原隆方(母親:源国挙女)
- 藤原隆成(母親同じ)
- 藤原隆清(母親同じ)
- 林慶(出家。母親は不明)
- 教意(出家。母親は不明)
- 女子(藤原良経室。母親は不明)
『枕草子』にも登場
以上、藤原隆光の生涯を駆け足でたどってきました。
ところで藤原隆光と言えば、永祚2年(990年)3月に、父と一緒に御嶽(みたけ)詣でへ行ったエピソードが有名ですね。
……右衛門の佐宣孝といひたる人は、「あぢきなき事なり。ただきよき衣を着て詣でんに、なでう事かあらん。必ずよもあやしうて詣でよと、御嶽さらに宣はじ。」とて、三月つごもりに、紫のいと濃き指貫、白き襖、山吹のいみじうおどろおどろしきなど着て、隆光が、主殿の助なるには、青色の襖、紅の衣、すりもどろかしたる水干といふ袴を着せて、うちつづき詣でたりけるを、かへる人も今詣づるも、めづらしう、あやしき事に、すべて、むかしよりこの山に、かかる姿の人見えざりつ、と、あさましがりしを、四月一日にかへりて、六月十日の程に、筑前の守の辞せしに、なりたりしこそ、げにいひにけるにたがはずも、ときこえしか。これはあはれなる事にはあらねど、御嶽のついでなり。……
※清少納言『枕草子』第119段「あはれなるもの」より
【意訳】右衛門佐(うゑもんのすけ)の宣孝という人は「下らない。神前で上等な服を着て何が悪いんだ。神様が『粗末な服を着てこい』とでも言ったのか?」と言って、たいそう派手な装束で参拝していた。
一緒にいた息子・(主殿助隆光)も青に紅に乱れ刷り模様という個性的ないでたちで参拝。
人々は例のないこととしてバカにしていたが、やがて昇進の辞令が下ったという。
「派手な格好が神様の目にとまったからじゃないの?」
いざそうなるとみんな掌を返し、口々に妬んだとか。
……というエピソードが伝わっています。
後に紫式部は宣孝と結婚しますが、連れ子ともどもバカにされたことで、清少納言を嫌うようになったとの説もあるそうです。
今後、隆光に大河ドラマ登場のチャンスはあるのか、楽しみにしています!