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新日本プロレスVS全日本プロレス<仁義なき50年闘争史>「標的は天龍!メガネスーパーが全日本にも触手」

アサ芸プラス

 1990年4月16日、大阪府立体育会館。天龍同盟を解散して1人になった天龍源一郎は、個室の控室で週刊ゴングの全日本担当記者であり、天龍番でもあった筆者に「ジャンボに負けたら‥‥辞めるよ」と言った。

 果たして3日後の4月19日、横浜文化体育館における三冠ヘビー級戦で、天龍はジャンボ鶴田のバックドロップ・ホールドに敗れた。

 当時、天龍にメガネスーパーが接触していることを知らなかった筆者は、戸惑いながらもこの天龍発言を記事にした。本が発売されたのは4月25日。その翌日の26日夕方、編集部にジャイアント馬場から電話がかかってきた。

 クレームかと肝を冷やしたが「もう知っているだろうけれども、天龍がメガネスーパーに行くことになったから。天龍とは今日を含めて何回か話し合って、将来は天龍部屋と全日本プロレスとの間で対抗戦が行われることもあり得るだろうし、円満退社なんで、くれぐれも変なことは書かんでくれよ」というもので、馬場の口調は意外にも穏やかだった。結果的に私の記事は天龍の全日本退団のスクープになったのである。

 天龍は4月19日にシリーズが終わると、メガネスーパー側に「馬場さんから了解を得るまでは保留にしてください」と伝え、4月23日に京王プラザホテルで馬場に辞意を伝えた。

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 馬場は返事を保留、2人は25日にも銀座の日航ホテルで会っている。

「馬場さんに〝意思は固いのか?〟って7割方OKしてくれて、その後に馬場さんの運転手として来ていた和田京平も含めて3人で『鮨處おざわ』で寿司食ったのが馬場さんとの最後の食事になった」(天龍)

 馬場が「これが最後の話し合いだから」と、天龍をキャピトル東急ホテル(現ザ・キャピトルホテル東急)に呼んだのは翌4月26日。馬場は「お前を全日本の社長にするから」と慰留したが、天龍は「それではジャンボの立場がなくなるじゃないですか」と固辞。

 最終的に馬場が「お前が行くと言うんだったら、その気持ちを無下にするわけにいかないから、了承して‥‥まあ、いずれ対抗戦でもやれればいいな」と、天龍の退団を了承。そして馬場はマスコミ各社に連絡したのである。

 メガネスーパーの新団体構想は、天龍などの主力選手が相撲部屋のように、それぞれが部屋を持ち、部屋別の対抗戦によって展開していくというもの。馬場と天龍は、将来的に全日本VS天龍部屋の対抗戦をやることで合意していた。

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