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宮本亞門明かす「かつて憎かった父」への怒りが消えた瞬間

女性自身

 

「再婚して家庭もある親父は、『灰はどこにまいてくれてもいい。とにかく金をかけないでくれ』と言っていました。晩年は『終活』を気にしてばかりで」

 

そのため、初七日も四十九日もせず、墓に納骨したのだという。

 

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■昔は父のことが世の中でいちばん憎かった

 

「不思議なことに、母が死んだときは上から見守ってくれていると感じたのですが、親父はそこにはいず、人生をやりきったのか、すでに天国で母や友達とイキイキとしている気がしたんです」

 

亞門さんは父を送りながら、自身が21歳のときに亡くなった母・須美子さんのことを思い返していた。

 

「父の晩年、僕は『趣味は親孝行』なんて言ってましたが、母が亡くなるまでは親父のことが憎かった。酒を飲んで暴力はふるうし、浮気もする。世の中でいちばん先に死んでほしいと思うほどでした」

 

亮祐さんは松竹歌劇団のダンサーだった12歳年上の須美子さんと駆け落ちし結婚。銀座で喫茶店を営んでいた。

 

’80年、亞門さんが出演する舞台の初日の前日のこと。須美子さんが脳溢血で倒れ、突然この世を去ってしまう。

 

 

■母が倒れても酔っぱらっている父

 

「『お母さんが倒れた』と電話しても、親父は酔っぱらっていて。怒鳴りつけるとようやく状況を理解して駆け付けてきました」

 

2人の願いはかなわず、病室で心電図の波が一本の直線になった。

 

「親父は泣かずに、おふくろの髪を指でそっと一本一本手ぐしでとかしていって。僕も医師もいるのに、おふくろの後頭部を抱いてキスをしたんです。まるで母が生きているかのように。親父がいかにおふくろのことを愛していたかが伝わってきました。その瞬間から、親父には僕はもう何も言えないと思ったんです。僕にはわからない、2人の長い人生があったのだと」

 

須美子さんは、亞門さんを出産するときの輸血で肝炎を罹患した。

 

「その影響で、母は年を重ねるごとに具合が悪くなっていきました。それでも母は『1秒もムダにしたくない』と、人生を大切に生きる強い女性でした」

 

そんな母は生前、亞門さんにこう説いたという。

 

「舞台の演出家になりたいなら、本物が集まるブロードウエーで磨いてきなさい。すべてを見なさい。目を閉じちゃだめーー」

 

その言葉が、亞門さんにニューヨーク行きを決意させたのだ。

 

また当時、妻を亡くし気力を失った父は、息子のアパートに転がりこんでいた。愛妻を亡くして以降活力がない父の姿を見て、「一緒にいるとお互いのためにならない」という思いもあったという。

 

出発の日、成田空港まで見送りに来た父と抱き合った。そのとき、小さなメモを手渡された。

 

「そこには『人生、悩むには短すぎる』と書いてありました。悩むために生まれたんじゃない、自分なりに精いっぱい充実した時間を過ごすことで、人は“生きててよかった”と思えるのだと。親父のメッセージが胸に響きました」

 

その後、亞門さんは’87年に演出家デビュー。

 

’04年にブロードウエーで演出を手がけた『太平洋序曲』がトニー賞にノミネートされるなど、国内外で活躍の場を広げていった。

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