昭和ライダー第1期の最後の作品となった「仮面ライダー 昭和 vol.6 仮面ライダーストロンガー (平成ライダーシリーズMOOK)」(講談社)

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見てない人も知っている有名特撮シリーズも、中断された時期があった

『ウルトラマン』や『仮面ライダー』『スーパー戦隊』といった特撮ヒーローものは、今でこそ何十年にも渡って安定的に番組を供給していますが、ずっと放送し続けられていたわけではありません。特撮の黎明期は玩具を商品化する「マーチャンダイジング」などの手法が確立せず、さまざまな事情も重なって番組が制作されない時期もありました。そこで今回は、「空白期」の子供たちの体験と、制作されなかった「大人の事情」を振り返ります。

 1970年代後半、特撮番組の制作環境は不安定でした。視聴率が低かったり、玩具の売れ行きが悪かったりすると、すぐ打ち切りになります。どちらが低くても番組が成り立たなかったのです。

 1971年から始まった「仮面ライダー」シリーズは、1975年12月27日の5作目『仮面ライダーストロンガー』の最終回で第1期シリーズに幕を下ろします。関東と関西で放映局系列が違うことを解消して、TBS系列で放送開始した『ストロンガー』でしたが、時間帯が変わったせいか視聴率は下降気味で、シリーズはいったん終了されることとなりました。

 他にも特撮ヒーローとして外せない「ウルトラマン」シリーズですが、実は1974年の『ウルトラマンレオ』も製作費を回収できずに赤字となり、1971年から続いた『帰ってきたウルトラマン』から「昭和第2期ウルトラシリーズ」も終わりを迎えました。また1973年~74年の第1次オイルショックのあおりを受けて物価が急激に上がったこともあり、より番組制作のハードルを高くしたといえるでしょう。

 ちなみにウルトラシリーズを制作する円谷プロは製作費の高いウルトラマンの製作を中断し、等身大の特撮ヒーローである1973年『プロレスの星 アステカイザー』や、アニメと特撮を融合した1976年『恐竜探険隊ボーンフリー』などを手がけますが、いずれもあまり話題にならずに終了します。

 しかし復活の兆しはウルトラマンと仮面ライダーとともにあり、1970年代からは雑誌主導で特撮のリバイバルブームが巻き起こります。「ウルトラマン」シリーズと「仮面ライダー」シリーズがともに再評価され、ウルトラマンは1979年のアニメ『ザ☆ウルトラマン』に続き、1980年の特撮ドラマ『ウルトラマン80』、仮面ライダーはシリーズ1作目をリメイクした1979年『仮面ライダー(新)』として復活しました。

 その後、仮面ライダーやウルトラマンは中断と復活を繰り返していましたが、スーパー戦隊シリーズに習ったマーチャンダイジングのシステムを確立すると、仮面ライダーは2000年『仮面ライダークウガ』、ウルトラマンは2013年『ウルトラマンギンガ』から継続して毎年製作されています。

 特撮ヒーローは撮影のために大きな予算が必要であることがわかりますが、シリーズの人気によって用意される額が左右されるようです。



「スパイダーマン東映TVシリーズDVD BOX」(東映ビデオ)

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「アメコミ×特撮」が不毛期を救った?

 東映のプロデューサーである鈴木武幸さんの著書『夢を追い続ける男』(講談社)によると、1975年10月放送の『アクマイザー3』のスポンサーから提示される予算は、同年4月から放送された『仮面ライダーストロンガー』の予算の半分です。

 俳優の出演料を節約するため、苦肉の策で人間が変身しないヒーローを考案したものの、結果的には視聴率を獲得することはできませんでした。また『アクマイザー3』の続編である1976年放送の『超神ビビューン』では、人間が変身する設定に戻しても、人気の回復には至りません。1977年4月放送のSFアニメ『氷河戦士ガイスラッガー』が打ち切りになり、急遽制作された特撮テレビ番組『冒険ファミリー ここは惑星0番地』は『ビビューン』の時よりも予算が削られて、『ガイスラッガー』と同様に不評のために20話で打ち切りとなります。

 その他、1974年『がんばれ!!ロボコン』、1975年『秘密戦隊ゴレンジャー』は幸い視聴率も玩具の売上も好調で、放送期間も延長されて大好評のうちに終了しました。ところが『ゴレンジャー』に続く1977年『ジャッカー電撃隊』、ロボコンに続く1977年『ロボット110番』の後番組が対象年齢を上げたために視聴者に受け入れられず、2作ともに打ち切りになってしまいます。後番組は同じく石ノ森章太郎先生原作の東映ドラマですが、それぞれ1978年に放送された『透明ドリちゃん』『がんばれ!レッドビッキーズ』と、女の子が主人公の作品が制作されました。

 しかし、ドラマ制作の低予算化の流れを止める動きが起こります。それが1978年に日本で公開された『スター・ウォーズ』でした。当時の海外映画は日本の公開にはタイムラグがあり、東映の製作陣は『スター・ウォーズ』の日本公開前にいち早く便乗作品に乗り出します。

 それが1978年に公開された深作欣二監督の『宇宙からのメッセージ』でした。同作は4月に映画が公開された後に『透明ドリちゃん』の後番組として、映画版の造形物や映像を受け継いだ『宇宙からのメッセージ 銀河大戦』が7月から放送されます。しかし、期待の割に視聴率は平均6%台とふるいませんでした。1971年の『仮面ライダー』から続いていた東映特撮の放送枠が終了し、わんぱく少年の青春の日々を描いたドラマ『俺はあばれはっちゃく』が1979年から始まって以降、同シリーズが放送されるようになりました。

 特撮ヒーロー番組の存在が途切れてしまいましたが、新番組には同年代の子供が活躍するドラマやアニメが放送されていたので、子供たちはヒーローが見られなくても取り立てて喪失感を感じていなかったようです。

 特撮ヒーローの火が消えかかっていたなか、唯一の希望が東京12チャンネル(現テレビ東京)で1978年から放送されていた東映版『スパイダーマン』でした。

 当時、東映とアメリカンコミックの出版社「マーベル・コミック」が、提携関係にあったために実現した企画です。キャラクターこそ『スパイダーマン』そのものですが、宇宙人から能力を与えられたり、巨大ロボ「レオパルドン」にスパイダーマンが乗り込んだりするなど、原作にはない要素が満載でした。

 販売された「レオパルドン」のおもちゃの売上が好調で、土曜の6時に復活したスーパー戦隊の枠でマーベルと提携した1979年放送の『バトルフィーバーJ』でも、今までのスーパー戦隊にはなかった巨大ロボ「バトルフィーバーロボ」が登場します。

 ゴールデンタイムから時間がずれたことで、当然視聴率は下がりますが、ロボットのおもちゃの売上が安定することで、長期的にスポンサー契約ができることになりました。そのためにスーパー戦隊は時間帯が変わっても、長期シリーズとして存続することができたのです。

 スーパー戦隊シリーズに加え、1982年からはメタルヒーローシリーズの1作目『宇宙刑事ギャバン』が放映されました。メタルヒーローシリーズ終了後は平成になって仮面ライダーシリーズが復活し、現在に至ります。東映発の特撮ヒーローはマーチャンダイジングを確立したことで、現在も受け継がれるシリーズになっています。特撮ファンにとっては70年代後半は寂しい時期でしたが、まさかのスパイダーマンに救われ、その後の定番展開も生まれるという転換期でもありました。