写真説明:「関東大震災写真帖 君島孚撮影」というタイトルがついたアルバム
約100年ぶり、遺品の中から発見
1923年に発生し、未曽有の被害をもたらした関東大震災。カメラを持つ人がまだ少なかった当時、東京帝国大学(現東京大学)の学生だった21歳の青年が、当時の東京市内や横浜などを回り、惨状をカメラに収め、アルバムを作っていました。約100年の時を経て、親族の手に渡った遺品の中から、そのアルバムが見つかりました。
表紙に「関東大震災写真帖(ちょう) 君島孚撮影」というタイトルのついたアルバムには、自ら撮影したとみられる写真のほか、購入したものなど、計52枚が貼られています。
アルバムを作ったのは、九州帝国大学(現九州大学)の教授を務めた土木工学博士の君島八郎さんの長男、君島孚(まこと)さんです。
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父の後を追い東京帝大へ 同じ土木を専攻
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東京帝大で土木を学び、その後「道路研究の先駆者」と称されるほど活躍した父の後を追うように、孚さんも1923年に同大工学部に入学し、土木を専攻していました。関東大震災被災当時は東京にいたとみられます。
アルバムの最初の1枚は、被災した住宅の写真です。瓦や戸などが庭に落ちて散乱しており、写真の上に<本郷区駒込坂下町原田邸ノ一部 屋根瓦ハ落チ戸袋ハ離レ骨董品ノ棚ハ重ナリ倒ル包ミヲ抱エテ避難セントス>という説明が添えられています。
「原田邸」というのは、孚さんの母の実家だったそうで、震災発生時、孚さんはこの住宅にいたのかもしれません。
アルバムには、東京の大きな被害の様子を写し取った写真が並んでいます。
<オ茶ノ水ノ堤崩壊省線電車ノ線路ヲカクシ川ヲ埋ム 土ナダレ>
<浅草十二階危ナイ!!>
かつて日本で最も高い建物として知られ、「浅草十二階」の愛称で親しまれた浅草の12階建て展望台「凌雲閣」の被災後の様子や、御茶ノ水駅近くの土砂崩れなども記録されています。