鳥山先生の代表作『ドラゴンボール』のアニメ最新シリーズ『ドラゴンボールDAIMA(ダイマ)』の場面写真 (C)バード・スタジオ/集英社 (C)バード・スタジオ、とよたろう/集英社(C)バードスタジオ/集英社・東映アニメーション

【画像】「天才的デザイン!」これがかっこよくてカワイイ、鳥山明先生によるメカ・モンスターです(7枚)

これから私たちは、鳥山明のいない世界を生きていく

 鳥山明先生が、2024年3月1日に急性硬膜下血種で亡くなられました。享年68歳でした。

 この知らせを目にした瞬間、心が止まりました。身動きも出来なくなりました。言葉もまったく出てきませんでした。

 鳥山明というひとりの漫画家が、どれほど大きな存在だったのか知っていたつもりでしたが、亡くなられたいま、真の大きさを初めて思い知った気がします。「ご冥福をお祈り申し上げます」という言葉を書くだけでも、恐ろしいほどの努力を必要としました。

 あの鳥山明先生が、子供の頃から本当にたくさんの楽しみと喜びを与えてくれた鳥山明先生がもうこの世にいないことを、信じたくはありません。冥福を祈ると書いてしまえば、先生の死を認めることになる。筆者ごときが認めようが認めまいが、現実に何の変化もないことは理解しています。それでも、認めたくなかったのです。

 まだ68歳。まだまだやりたいこともあったはずです。もはや、先生の新作を読むことはできないのが残念でなりません。改めて、ご冥福をお祈り申し上げます。

 鳥山先生は過去40年以上にわたり、世界中で今なお愛されている『ドラゴンボール』や、その後に続くジャンプアニメの道しるべとなった『Dr.スランプ』など代表作と言える作品に加え、「ドラゴンクエスト」シリーズのデザインなど、マンガ、アニメ、ゲームに大きな功績を残しました。

 それにしても、これだけの実績を残した鳥山先生の忙しさはどれほどのものだったのでしょうか。

 ちなみに『Dr.スランプ』で、則巻千兵衛と山吹みどり先生が結婚した直後のエピソード「クレイジーハネムーン」では、鳥山先生は途中からペン入れ時の記憶がなかったことを明かしています。また、地方在住で原稿を航空便で郵送していた鳥山先生は、車で原稿を集荷場へ運ぶ際に、すでに信号の色が分からないほど疲弊していたこともあるそうです。

 1週間に20分ほどしか睡眠がとれなかったこともあり、休載が当たり前の現代からは考えられないほどのハードスケジュールをこなしていたのです。



初代『ドラゴンクエスト』パッケージ(スクウェア・エニックス)

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『ドラゴンボール』と『ドラゴンクエスト』の作業を並行して進めた

『ドラゴンボール』連載の時期には、この忙しさがさらに加速します。並行してゲーム「ドラゴンクエスト」シリーズのキャラクター及びモンスターデザインを担当しており、なかでも堀井雄二氏が描いたドロドロのスライムのラフ絵を、水滴状にデザインしたセンスは天才というほかないでしょう。

 多忙を極めた鳥山先生ですが、可能な限り手間を省くための工夫も行っています。マンガの制作工程はセリフやコマ割り、キャラクターを大まかに配置したネームに始まり、下描きペン入れを経て完成しますが、『Dr.スランプ』の初期はあと少し手を入れれば完成品になると思えるような精緻なネームを制作していました。しかし、途中からは「3度も描くのが面倒」という理由でネームを省き、いきなり下描きから始めるようになっています。

『ドラゴンボール』の有名な工夫としては、悟空たちがスーパーサイヤ人になる際に金髪になるのは、髪の毛のペタ塗りを避けるためという例が挙げられるでしょう。また、スクリーントーンについては切ったり張ったりするのが面倒だからと、あまり使用していませんでした。

 ただし『ドラゴンボール』終了後に、『探偵 神宮寺三郎』などを手掛けたデザイナーの寺田克也氏に教えを請うなどして、CGの技術を身に付けた後はトーン処理を取り入れています。

 近年も、映画『SAND LAND』や『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』など、鳥山先生の作品を目にする機会は多々ありました。先生の絵はすでに3DCGで再現できる段階に入っており、おそらくはこれからさらに多くの作品が世に出るはずだったのではないでしょうか。おそらくある程度の準備は進んでおり、これから新作が発表されるのではないかと推測しますが、その場に鳥山先生がいないのは残念でなりません。

 鳥山先生の訃報を聞いてから、自分のなかに当たり前のように存在していた何かが消えうせた感覚がしています。鳥山先生は物心ついたときから、多くの喜びと楽しみを与えてくださいました。『ドラゴンボール』の連載時、先を争ってジャンプをむさぼり読んだ思い出は、かけがえのないものでした。私たちは、みんなが鳥山先生の息子であり娘でした。

 たくさんの思い出を、ありがとうございました。