イスラム教の聖地といえばサウジアラビアのメッカが有名です。イスラム教徒は一生に一度、メッカ巡礼(ハッジ)することが義務付けられています。同様に、イラクのカルバラーにもイスラム教シーアにとって重要な聖地があります。今回は、歴史を辿りながら聖地カルバラーをご紹介します。

イスラム教シーアの聖地カルバラー

イスラム教の聖地といえばサウジアラビアのメッカが有名です。イスラム教徒は一生に一度、メッカを巡礼(ハッジ)することが義務付けられています。同様に、イラクのカルバラーにもイスラム教シーアにとって重要な聖地があります。

カルバラーは、バグダッドの南南西約80キロメートルのユーフラテス川中流右岸にあるイラク中部の都市です。西暦680年のイスラム教シーアとスンニの戦いの際、預言者ムハンマドの孫でシーアの第三代イマームであるフサインが殉教した場所として知られています。カルバラー中心部にはフサインの眠る廟が建てられ、イランやイラクをはじめ世界中のシーア派教徒の巡礼の絶えない聖地となっています。

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カルバラーの戦い

この聖地を語るに「カルバラーの戦い」は外せません。イスラム教に「スンニ」や「シーア」という派閥が確立されるキッカケともなった戦いです。ここで、イスラム教に「スンニ」と「シーア」という派閥が明確になった二人の悲劇の戦いを簡単にご紹介します。

イスラム教に派閥のできたキッカケと正統カリフ時代

そもそも、預言者ムハンマドがイスラム教を布教していた時代、スンニやシーアという派閥はありませんでした。ただ単に「イスラムの教え」があるのみでした。しかし、ムハンマドの死後、次のリーダー(カリフ)を決めるにあたり、実力や能力で選ぶべきとする意見と、預言者ムハンマドの血筋を重視すべきとした意見が出ました。

※カリフとは、預言者ムハンマドの後継者として、イスラム教徒を統率した国王の呼称です。

結局のところ、ムハンマドの死後に正統カリフ時代のカリフ4人は実力で選ばれました。

第一代カリフ:アブー・バクル(632年 – 634年)
第二代カリフ:ウマル(634年 – 644年)
第三代カリフ:ウスマーン(644年 – 656年)
第四代カリフ:アリー(656年 – 661年)

この4人のうち四代目アリーだけはムハンマドの遠い血筋でした。イスラム教創始者ムハンマドの従兄弟であり、娘婿でもあったのです。派閥が決定的になったのは第四代カリフのアリーが暗殺されてからです。

暗殺の応酬とウマイヤ朝

正統カリフ時代のカリフたちは、一代目のアブー・バクル以降3人とも暗殺されています。三代目カリフのウスマーン(ウマイヤ家出身)が暗殺されたとき、ウマイヤ家のムアーウィアはこの事件をアリー派の仕業として彼のカリフ就任を否認し、復讐を叫んで徹底的に対立します。アリーはカリフ就任後、信奉者の多いイラクのクーファへメッカから遷都しますが、クーファのグランドモスクで祈祷中、毒の塗られた刃で襲われ殺害されます。

父アリーの死を受け、長男ハサンがカリフに即位するも、ムアーウィヤはそれを認めず攻撃をしかけ続けます。長男ハサンは当初こそ応戦していたものの「人々の命を救い、イスラム教を守るため」とカリフ位を辞任。

アリーの長男ハサンがカリフを辞任したことで、ムアーウィヤは単独カリフとなり、自己の家系によるカリフ位の世襲を宣言して西暦661年にウマイヤ朝を開朝します。

イマームを正統としたアリー・シーア

これに反発したのがアリーの支持者。アリーを信奉し、以前から血統を重んじていた人々は「単に信者から選ばれたにすぎないカリフは信仰上で誤ることがある」が、「神アッラーの使徒としてムハンマドの血統を受け継ぐ者は誤ることはない」と、ウマイヤ朝のカリフ制を否定しました。

そして、「ムハンマドの娘ファーティマを母として生まれた長男ハサン、次男フサインの2人こそイスラム教の長に相応しい」とし、アリーを初代イマームとして長男ハサンを第2代イマーム、次男フサインを第3代イマームに推戴すると、ウマイヤ朝のカリフを無視し、イスラム教の真の教徒派閥としてアリー・シーアを形成していきます。

イスラム教シーアの12イマーム

第一代イマーム:アリー(父)
第二代イマーム:ハサン(アリーの長男、ムハンマドの孫)
第三代イマーム:フサイン(アリーの次男、ムハンマドの孫)
第四代イマーム:アリー・ザイヌルアービディーン(フサインの息子)
第五代イマーム:ムハンマド・バーキル
第六代イマーム:ジャアファル・サーディク
第七代イマーム:ムーサー・カーズィム
第八代イマーム:アリー・リダー
第九代イマーム:ムハンマド・タキー
第十代イマーム:アリー・ハーディ
第十一代イマーム:ハサン・アスカリ
第十二代イマーム:ムハンマド・ムンタザル(マフディー) – 隠れイマーム

アリーの長男ハサン毒殺

西暦669年、長男ハサンが死去します。ムアーウィヤが東ローマ帝国から毒を調達し、ハサンの妻に盛らせました。怒りを募らせる第三代イマーム次男フサインとアリーの支持者たちは、ムアーウィヤの死去により世襲でカリフとなった息子ヤズィードのカリフ位を否認。飽くまでも「預言者ムハンマドの聖裔に連なるアリーの一族のみがカリフに就き得る」との姿勢を崩さず、ついにヤズィードへ宣戦布告します。

フサインの出陣と誤算

そして決戦の日を迎えます。しかし、ここでとんでもない誤算が生じます。カルバラーでフサインと合流する予定だったアリー支持者クーファ軍が、ウマイヤ軍に封じ込められたのです。フサインはメッカから連れてきた少人数でカルバラーの戦いに挑まなくてはなりませんでした。圧倒的に劣勢(70:4,000)のなか、自軍はあっという間に虐殺され、最後は次男フサインと、旗手として戦う彼の異母兄弟アッバスのみとなります。

アッバスは大胆さと勇気を兼ね備え、フサインを守るため不屈の精神で戦ったとして、アリー・シーアのムスリムから究極のパラゴンと見なされています。背が高くてハンサムだったそう。最期まで戦ったアッバスは、500人の狙撃兵に射抜かれ即死。その後、フサインも怪我のひどさのために地面に倒れ絶命します。西暦680年10月。


次男フサイン

アッバス

未だに愛されるフサインとアッバス

現代においてもシーアのムスリムにとって彼らは悲劇のヒーロー。英雄中の英雄。アイドル中のアイドル。殉教王子として未だに熱烈に愛されています。そのフィーバーぶりが尋常ではないのですよ。

偶像崇拝禁止のイスラム教において、彼らの描かれた(上図)タペストリーや団扇、ティカップ、皿、タオル、ポスターなどなど、雑貨のありとあらゆる物が売られています。熱狂的なファンのおかげで、それらも飛ぶように売れています。まさにアイドル。


左から次男フサイン、父アリー、異母兄弟アッバス

筆者はこの辺りで車道走行中、度々彼らの顔が電柱に永遠と掲げられる道路を通りました。店の正面に大きなフサインの横断幕を吊るしているビルもありました。偶像崇拝禁止のイスラム教では大変に珍しい光景です。カルバラーの戦いももう、1,300年以上前の話なのですが。。