役人も区別ムリ!「鉄道」「軌道」なぜ違う 所管省庁の熾烈な”シマ争い”に終止符を打った「手打ちの条件」

ひとくちに鉄道と言っても、大別して「鉄道」と「軌道」の2種類があります。認可を行う政府の担当省庁も異なってきますが、このような「二重行政」は、明治時代から熾烈な所管争いの舞台となってきました。

鉄道には法律上「鉄道」「軌道」の2種類が存在する

 ひとくちに鉄道と言っても、大別して「鉄道」と「軌道」の2種類があります。

 

「鉄道」は私たちがイメージする一般的な鉄道で、「軌道」とはいわゆる路面電車です。これらは、それぞれ「鉄道事業法」と「軌道法」という法律が根拠になっています。

 ところが京急電鉄や京王電鉄、京成電鉄は80年ほど前、京阪電鉄や阪神電鉄などは50年ほど前まで「軌道」の扱いとされていました。昔から区分が非常にあいまいなものだった「鉄道」「軌道」はなぜ生まれ、一本化されず、変遷していったのでしょうか。

 鉄道と軌道の最大の違いは、鉄道は原則として「道路に線路を敷設してはいけない」のに対し、軌道は原則として「道路上に軌道を敷設しなければならない」とされています。鉄道の法制度は1887(明治20)年に公布された「私設鉄道条例」、軌道は3年後の1890(明治22)年に公布された「軌道条例」に始まります。

 私設鉄道条例は国に代わって鉄道(当時は汽車)を建設する大規模な鉄道会社、軌道条例は馬車鉄道を想定していました。しかし1892(明治25)年に新技術である「電車」、つまり当時の路面電車が登場。これを「軌道」に含めることが決まり、鉄道と軌道のすみ分けと法制度が固まりました。

 ところが両者の壁は、1899(明治32)年に設立された阪神電気鉄道をきっかけに早くも揺らぎ始めます。同社は大阪~神戸間を電車で結ぶ構想を立てますが、認可に法律の壁が立ちはだかります。私設鉄道条例のもとでは、官設鉄道に並行する「鉄道」の建設は認められなかったのです。そこで目をつけたのが軌道条例でした。

 また、鉄道と軌道のもうひとつの違いが所管省庁です。鉄道は当時の逓信鉄道局が所管していましたが、道路上を走る「軌道」は道路行政を管轄する内務省との「共同所管」となっていました。

 内務省は警察や地方行政など内政一般を担当する「官庁の中の官庁」であり、大きな影響力を持っています。こうした力関係を背景に、内務省は軌道を「どこか一部分でも線路が道路上にあればよい」と解釈し、高速運転を前提とした都市間電気鉄道「インターアーバン」として建設することを認めたのです。

 これ以降、関西では箕面有馬電気軌道(現在の阪急)、京阪電気鉄道など、関東では京浜電気鉄道(現在の京急)、京成電気軌道など、現在の大手私鉄が軌道として、国営鉄道に並行する路線を次々と開業しました。

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「補助金が欲しいから延伸区間は別会社で作る」カオスな状況も

 一方、鉄道においても大正後期から昭和初期にかけて、目黒蒲田電鉄や東京横浜電鉄など私設鉄道法や地方鉄道法にもとづく電気鉄道が開業し、また蒸気鉄道として開業した路線の電化も進みました。

 そうした中、軌道である京王が「地方鉄道法の補助金制度の適用」を狙い、わざわざ玉南電気鉄道という”別会社”を立てて府中~京王八王子間を鉄道として建設したり、「軌道である京浜電気鉄道」と「鉄道である湘南電気鉄道(日ノ出町~浦賀)」が直通運転を開始したりと、混沌とした状態に。鉄道と軌道の線引きはますます曖昧なものになっていきました。

 1940(昭和15)年に発行された解説書『地方鉄道法 改訂増補』では、「動いている電車だけ見ても、それが軌道か鉄道か区別がつかないし、鉄道省などで監督事務にあたる人であっても理屈で説明しづらい」といった”本音”が記されています。

 そんな鉄道と軌道のもどかしい関係は、その後に発生した太平洋戦争によって大きく変わります。これまで見てきたように電気軌道は事実上の鉄道でしたが、法令上はあくまで軌道法に従うため、同種の鉄道なのに2つの手続きが存在することになります。

 これを一元化し、速やかに輸送力増強に着手できるよう、1944(昭和19)年に運輸通信省と内務省は軌道事業者に対し、地方鉄道への変更を求めました。これを受け1945(昭和20)年にかけて、東京急行電鉄品川線(現在の京急電鉄)、京王線(京王電鉄)や京成電気軌道、江ノ島電鉄などが地方鉄道に転換します。しかし転換が終戦後にずれ込んだ路線も多く、また関西の主要路線は変更に至らず軌道のままとなりました。