ビート、それは「親父さん」の最後の思い出

ホンダFACTBOOK「BEAT」より

新宿のホテルで開かれた発表会、ひと目見てスポーツカーとわかる、小さく低い黄色いクルマ、ホンダの社長も今日ばかりは黄色いネクタイを締めて、会場からの(クルマへの)歓声に得意満面。

そして会場の片隅に立つ一人の老人、かつて竣工前の鈴鹿サーキットで試作に終わったS360のステアリングを握り、全国から集った販売店の面々を前に得意満面で駆け抜けたこともあるその老人は、新時代の幕開けを見送るようにそっと去っていった…。

1991年5月15日、ホンダ ビートの発表会で実際にあったエピソードです。

そっと去っていた姿の主は本田 宗一郎、言わずと知れた本田技研の創業者であり、1970年代はじめに技術者としての第一線を去ってからは経営に専念し、社長業を離れた晩年にも現場に時々顔を出す本物のクルマ好きで、開発中のNSXのステアリングも握りました。

宗一郎氏がこの世を去ったのはそれから3ヶ月足らずのことで、ビートは最後にその生を見届けた、最後のクルマになったのです。

このビート、後にS660という後継車も得るほど愛されたクルマで、バブル時代を象徴する軽スポーツABC(オートザム AZ-1、ホンダ ビート、スズキ カプチーノ)の1台でしたが、ジックリとプロジェクトを練り上げたNSXと違い、急きょ開発したクルマでした。

それも、販売状況に危機感を感じた国内営業部署の緊急要望により、「とにかく明るい雰囲気にしよう」と作られたもので、開発チームは社内公募、時間がない、試作もテストも一発でOKを出さねばならないと、とにかく超特急。

それでフルオープンモノコックボディや、ターボもDOHCもVTECもないのにブン回し、64馬力を叩き出す電子制御3連スロットル「MTREC」まで組み込まれていたのですから、何もかもが勢いだったのでしょう。

結果的にホンダの「親父さん」こと、宗一郎氏の生前に間に合った形となり、ホンダファンならずとも愛される理由がひとつ増えました。

(広告の後にも続きます)

ビート、それは腕前の試されるミッドシップスポーツ

ホンダコレクションホールに展示されているビート

嘘か真か、1990年頃に来日したあるF1ドライバーが「新型ミッドシップスポーツに乗せてやる」とホンダに呼ばれ、これはNSXに乗れるぞとウキウキして馳せ参じたらビートでビックリした、という話を聞いた事があります。

NSX自体、「2人乗りのF1マシンみたいなもんだ」という発想があったようですが、NSXはともかく、ビートはF1ドライバーによってどんなインプレを残したのでしょうか(それはそれで楽しんだとも聞きますが)。

時折サーキット走行会で出くわしたビートは、これぞミッドシップと言わんばかりにタイトコーナーをスルリと回るや、勢いもそのままにスパーン!と抜いていく速いクルマというイメージでしたが、どんなときでも速かったとは言えません。

最大トルク7.1kgf・mは7,000回転で、最高出力64馬力は8,100回転までブン回して初めて発揮されるもので、いかに燃料噴射制御マップを状況に応じて切り替えるMTRECといえど、低中回転でのピックアップも最高!とはいかなかったようです。

コーナリングで失速すると、その後の直線では少なからぬ影響が出て、当時筆者が乗っていた550cc50馬力のミラターボでも、長いストレート後半でなければついていける事もありました(車重が150kg以上軽かったのもありますが)。

もちろん手練が乗ったビートは、こちらがノタノタとクリアしたコーナーをシュッと回ったのがバックミラーに写ったとみるや、次の瞬間にはスパーン!でしたが、腕前によって速いか遅いかハッキリしたクルマだ、と思ったのをよく覚えています。

仙台ハイランドやツイスティならともかく、富士スピードウェイでは手も足も出ませんでした…

<悲劇>流行った下ネタと同じ名前だった車も…名前で損してそうなホンダ車たち【推し車】