“サンライズ”より豪華だった? 寝台特急「瀬戸」人気列車の50年 「出雲」との出会いは

2022年現在、国内唯一の定期寝台列車として運行される「サンライズ瀬戸」ですが、これが寝台特急になったのは1972年のこと。車両や運行形態を変えながら、今日まで東京と四国を直結する列車であり続けた「瀬戸」の50年を振り返ります。

東京発着の「せと」 実は後発

 東京~高松間を結ぶ寝台特急「サンライズ瀬戸」は、併結運行される「サンライズ出雲」と共に、国内唯一の定期夜行列車です。この「瀬戸」が寝台特急となったのは、1972(昭和47)年3月15日のこと。2022年で50周年を迎えました。

「瀬戸」の前身となる四国連絡夜行列車の歴史はさらに古く、1950(昭和25)年10月に新設された、東京~宇野間の急行「39・40列車」です。宇野行きなのは当時、瀬戸大橋線が未開業で、列車は宇野~高松間の宇高連絡船に接続していたからです。

 この時「39・40列車」は広島行き急行と併結しており、荷物車を含む5両編成でした。ダイヤは下りが東京21:30→宇野13:10、上りが宇野16:03→東京7:23でした。

 下り列車は宇高連絡船に接続し、高松から松山行きの準急「せと」と、須崎行きの準急「南風」に接続していました。東海道本線を走る急行に付いていない列車名称が、四国内の準急に付いていることに時代を感じます。

 急行「39・40列車」は好評で、いったん単独運行に変更された後、1951(昭和26)年11月25日より東京~大社間を結ぶ急行と併結されます。当時は出雲市駅から出雲大社へ向かう「大社線」が分岐していました。

 その1週間後である同年12月2日に、宇野行き急行は「せと」、大社行き急行は「いずも」と命名されました。寝台特急「サンライズ瀬戸・出雲」へと続く縁の始まりです。なお、四国内の高松~松山間の準急も「せと」を名乗ったままであり、同時期に場所を異にして同じ名前の列車が走っていたことになります。

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一時期、最新鋭の14系を連結したが…

 1956(昭和31)年、「せと」は「いずも」と分離運転されることになり、同時に両者は「瀬戸」「出雲」と漢字表記に変更されます。

 分離された「瀬戸」は荷物車1両、特別2等車(現在のリクライニングシート付きグリーン車に相当)1両、2等車(現在のリクライニングシートではないグリーン車に相当)1両、3等寝台車(現在のB寝台車)1両、3等車(現在の普通車相当)9両の計13両編成で、旺盛な需要がうかがえます。さらに1961(昭和36)年からは14両編成となり、1等寝台車(現在のA寝台車)や食堂車の連結も行われて、さらに豪華な編成となっています。

 1964(昭和39)年、東京~宇野間に急行「さぬき」が新設されます。1等寝台車、1等車、2等車、食堂車が各1両、2等寝台車8両という寝台車主体の編成で、ダイヤも東京20:10→宇野9:10、宇野20:10→東京9:49と、かなり実用度が上がっています。

 早くも「さぬき」は1968(昭和43)年に「瀬戸」と統合され、「瀬戸」は2往復となります。大きな変化は1971(昭和46)年10月の、14系B寝台車の連結です。まだ特急にも連結されていなかった最新鋭寝台車スハネフ14形1両とオハネ14形3両が、一般型客車と併結して急行に連結されたことは、当時大きな話題となりました。

 急行「瀬戸」は1972(昭和47)年3月より、寝台特急「瀬戸」となります。列車は格上げされましたが、車両は中古の20系客車となり、B寝台車の居住性はむしろ低下しています。A寝台車2両が連結されたものの、利用率の悪い食堂車はすぐに営業休止となり、サービスレベルも上がったとはいいづらい状況でした。ただしダイヤは東京19:25→宇野6:12、宇野21:05→東京7:25となり、特急らしくかなりのスピードアップが図られています。