top_line

「エンタメウィーク」サービス終了のお知らせ

濱口竜介による謎めいた一作『悪は存在しない』を解説 観客を混乱させる結末の狙いとは

Real Sound

『悪は存在しない』©2023 NEOPA / Fictive

 いま、海外の映画祭で最も注視されている日本の映画監督、濱口竜介。各国の映画祭で数多くの賞を獲り、カンヌ国際映画祭、ベルリン国際映画祭、ヴェネチア国際映画祭、いわゆる「世界三大映画祭」で受賞を果たしたほか、アカデミー賞国際長編映画賞も受賞する快挙を成し遂げている。世界三大映画祭での受賞とアカデミー賞を受賞したのは、日本では黒澤明監督以来である。

参考:全国の都会人よ、『悪は存在しない』のラストに震えろ 濱口竜介イズムの詰まった寓話

 この偉業を完成させたのが、ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞(審査員賞)受賞作『悪は存在しない』だ。この映画が一般公開されているいま、話題となっているのが、異様ともいえる結末部分の意外な展開である。突飛に感じられるとともに観客を混乱させる内容は、果たして何を表現したものなのか。

 ここでは、謎めいた本作『悪は存在しない』をどのように観れば良いのかを解説しながら、この種の映画の見方を提案するとともに、なぜこのような映画が海外の大きな賞を獲得できるのかを考えていきたい。

 世界で名だたる賞を受賞し、一躍、濱口竜介監督の名を広く知らしめた『ドライブ・マイ・カー』(2021年)。その音楽を担当していたのが、シンガーソングライターでもある作曲家の石橋英子だ。本作『悪は存在しない』は、石橋が自身の「ライブパフォーマンス」のために濱口監督に映像制作を依頼するという、逆の立場からのオファーが基になっている。本作は、石橋の音楽世界に連なる映画作品ということなのだ。

広告の後にも続きます

 映画史において、劇場で生演奏がおこなわれていたサイレント期より、映画と音楽の関係は、切っても切り離せないものになっている。音楽が映画を引き立てるように、登場人物の感情や情景に合わせた旋律やリズムを奏でること、あるいは、あえて全く逆の印象を与える曲をあてる「対位法」を利用して、観客の心情を揺さぶることが、映画と音楽との関係であると、一般的には考えられている。

 しかし、本作ではそのような予定調和が、冒頭より乱されていると感じられる。映像と音楽が、全く関係がないようでいて、どこか有機的に繋がってもいるようなバランスは、従来からの映像と音楽との相互的な従属関係を意識的に回避しているように感じさせるのだ。

 ジャン=リュック・ゴダール監督の映画による音楽の使い方もまた、従来の音楽と映画との関係を、立ち止まって考えさせるような“自覚的な意識”が存在する。本作のタイトルが、どことなくゴダール風に表示されたり、石橋のサウンドトラックのビジュアルにも露骨にゴダール風のレタリングが使用されているのは、まさに映画と音楽との関係が基となっている本作が、絶えずそこに自覚的であろうとする宣言であるだろう。

 本作は、音楽への取り組みだけでなく、映像的な演出や物語の面においても、このような“自覚性”を持つという姿勢をとろうとしていることが、大きなポイントとなっている。映画は長い歴史のなかで、効果的なアプローチや演出を次々と発明してきた。それらをオマージュとして模倣していくことも、枠組みを利用することも、基本的には“悪”とはされてこなかった。しかし、いつしか模倣することが前提となり、その全てが無意識的におこなわれるようになっていった。演出から“自覚性”が失われていったのである。

 革新的な表現に挑戦するのであれば、まず自らの表現の本質を捉えなければならない。ゴダール監督のような先人は、これまでどのような表現をおこない、それは映画に何をもたらし、何を形づくってきたのか。それを把握しつつ、自分がいま何をやっているのかをも正確に理解し、自覚とともに一つひとつの表現をおこなっていく……。濱口監督の師といえる存在の黒沢清もまた、そういう目で見るのなら、映画史や映画作家の表現を踏まえて映画を撮る映画監督であるといえる。

 当初はスタッフとして参加していたという大美賀均が、本作の主演になっているのも非常に面白いポイントだ。こういう先入観や慣例を逸脱するようなアプローチは、通常の商業的な映画づくりのプロセスではあり得ない、むしろ学生映画のノリだといえるだろう。しかし、このような“気づき”をクリエイティブに柔軟に反映させるような姿勢があるからこそ、そこに無意識的な思い込みから観客を脱却させるような、より自由な表現への可能性が提示できるのではないか。

  • 1
  • 2
 
   

ランキング(映画)

ジャンル