10代で結婚して母となり、幸せな家庭を築いていたある日、運転していた乗用車が交通事故に遭って炎上した。瀕死の大火傷を負い、意識不明の重体から脱すると顔かたちが変わっており、両手の指先を切断せざるを得ない事態が待っていた。泣き暮らした日々を経て、家族や周囲の支えを得て新たな日常をつくり上げていった、ある母親の渾身の記録。※本記事は、森 亜美氏の書籍『Re:start~全身の60%に火傷を負った私~』(幻冬舎ルネッサンス)より、一部抜粋・編集したものです。
Chapter1. 私の生い立ち〜幸せな結婚生活
おばあちゃんちの思い出
次の日の朝イチにかかりつけの小児科で受診して、吸入してから酸素数値を計ってみても数値が上がらず、かなり苦しい状態とのことでした。
いつもの小児科ではこれ以上診ることができないと言われてしまい、そのまま大きい病院へ行くことになったのですが、娘は駐車場から院内までも歩くことができないぐらい衰弱していました。
急いで車椅子を借りに行って娘を乗せてから受付を済まし、色んな検査や点滴をしたところ気管支喘息と診断され、そのまま入院になってしまったのです。コロナの状況もあり、付き添いは1人までの面会謝絶でした。
点滴と朝晩の吸入で徐々に回復してくれて、3~4日で退院できました。子供がぐったりしている姿を見るのは辛いということ、そして、子供はやっぱり元気が一番ということに改めて気付きました。
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娘は車椅子が気に入ったみたいで、元気になって退院する間近に「もう1回車椅子乗りたいな〜」と呟いていました。
娘の付き添いをしている間は家に帰ることができなかったので、以前からお世話になっている家政婦さんや夫に家の事をお願いしてやってもらい、凄く助かりました。
退院してからは、毎朝夜に喘息予防の吸入をしばらくの間やるようにという指示のもと続けています。季節の変わり目には体調が悪くなってしまう時もありますが元気です。
おばあちゃんの話に戻りますが、おばあちゃんが毎朝作ってくれたチーズとサラミを乗せて焼く食パンや、お正月に作ってくれたお雑煮が今でも大好きで、おばあちゃんのレシピを引き継いでたまに作っています。
NHKの朝ドラが放送される時間まで覚えちゃって、放送時間が近づくとおばあちゃんに「もうすぐ始まるよ〜」と伝えて一緒に見たり、おじいちゃんには川遊びに行った帰りにお菓子屋さんに連れていってもらったりなど、ホントに数え切れないほどの思い出があります。
そんな私を可愛がってくれていたおばあちゃんとおじいちゃんは今では他界してしまい、もう会えないのが寂しいです……。