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『週刊ベースボール』での手記が球団批判と取られ…… ドジャース戦法を取り入れた川上哲治と広岡達朗の確執前夜

日刊SPA!

現役時には読売ジャイアンツで活躍、監督としてはヤクルトスワローズ、西武ライオンズをそれぞれリーグ優勝・日本一に導いた広岡達朗。彼の80年にも及ぶ球歴をつぶさに追い、同じ時代を生きた選手たちの証言や本人談をまとめた総ページ数400の大作『92歳、広岡達朗の正体』が発売直後に重版となるなど注目を集めている。
巨人では“野球の神様”と呼ばれた川上哲治と衝突し、巨人を追われた。監督時代は選手を厳しく律する姿勢から“嫌われ者”と揶揄されたこともあった。大木のように何者にも屈しない一本気の性格は、どこで、どのように形成されたのか。今なお彼を突き動かすものは何か。そして何より、我々野球ファンを惹きつける源泉は何か……。その球歴をつぶさに追い、今こそ広岡達朗という男の正体に迫る。

(以下、『92歳、広岡達朗の正体』より一部編集の上抜粋)

〜読売巨人軍編〜
◆大きな転換期となった〝ドジャース戦法〟

「川上哲治という人は〝打撃の神様〟ではあったが〝野球の神様〟ではなかった」

これが、広岡から見た川上評だ。川上は自分が勝者になるためなら何でもやる個人主義者。打撃の神様であると同時に野球の悪魔でもあった。

川上哲治という人間を知る端的なエピソードがある。太平洋戦争を経験している川上は「銃弾の雨の中を潜り抜ければ、無の境地を会得できて打撃に生かせるのではないか」と 戦地へ行くことを心待ちにしていたという。野球技術向上のため戦争へ赴きたいという思考回路を持つ人間が、他人とまともに交われるはずがない。

「川上さんは熊本工業から巨人に入って、相手から自分になびいてくるのはいいけれど、 自分から引き入れようとする勇気がないね」

現役時代は互いに牽制し、衝突を繰り返していた川上が六一年に監督就任。その三年後に確執の決定打となる「長嶋ホームスチール激怒事件」が起きてしまう。

「ホームスチール事件の前に『週刊ベースボール』で手記を書いてくれと頼まれたことがあった。球団にお伺いを立てて〝大丈夫〟と言われたから三回の連載を書いた。あの試合のときはこうやるべきだったとか、俺だったらこうするといった自分なりのドジャース戦法の分析と戦術を書いたつもりだったが、それがまずかった」

球団側も了承したので「それならば」と書いたことが、機密事項の漏洩、球団批判と取られてしまった。正しいこと、間違っていることをきちんとそれぞれ分析したことを手記にした。書く以上は持論を交えて戦術・戦略を解析し改善点も記した。それが逆鱗に触れたのだ。

ここで特筆されるのは、プロ野球史を紐解くうえでも大きな転換期となった〝ドジャース戦法〟とは一体なんぞや、だ。そもそもプロ野球界に戦術・戦略を初めて持ち込んだのは、川上巨人だと言われている。六〇年の秋、川上は一八年間の現役生活を終えて監督に就任。六〇年のシーズン、リーグ五連覇中だった巨人だが、打撃陣は三割バッターが長嶋のみ。投手陣は藤田元司の故障により堀本律雄が29勝と孤軍奮闘するが、他のピッチャーが総崩れで二位に終わり、水原が辞任に至ったという形だ。

監督になった以上、初年度から是が非でも優勝するためにどうしたらいいのかと川上が思案に暮れていると、一冊の本に巡り合った。ブルーの表紙でタイトルに『ドジャースの戦法』(五七年ベースボールマガジン社発行)と記されている。ページを開くと、今までやってきた野球とは違うことが書いてある。選手個人が勝手にプレーするのではなく、チーム全体がサインによって連携してプレーする。目からウロコだった。

◆日本球界に初めて持ち込まれた“考える野球”

早速、翌春の宮崎キャンプでドジャース戦法を取り入れるべく練習するが、上手くいかない。連日のミーティングでも説明をするが、誰もがちんぷんかんぷん。そりゃそうだろう。川上自身もやったことも見たこともないから、選手たちができないのは当たり前だった。

その後、宮崎からフロリダのベロビーチに移ってブルックリン・ドジャース(現ロサンゼルス・ドジャース)と一緒に練習することになった。百聞は一見に如かず。そこでようやく「ドジャース戦法」のなんたるかがわかった。

そもそも、それまでのキャンプといったら、起床時間、練習時間の開始だけが決まっているだけで、細分化されたスケジュールなど存在しなかった。レギュラーは昼までちょこちょこっと練習して、後は麻雀三昧。それが、ドジャースのキャンプはいくつもの球場を使用し、打撃、守備、走塁の練習がタイムスケジュールで管理されていたことに巨人の選手たちは驚いた。とにかく、川上は今までのキャンプのやり方を刷新し、効率良いスケジュールを立てることから始めた。そのうえで徹底的に組織プレーを反復練習させ、毎夜ミーティングをやり、〝考える野球〟を定着させたのだ。

巨人がドジャース戦法を取り入れるまでは、日本のプロ野球チームがサインプレーによって連携することなど皆無だった。例えば一塁ゴロのとき、ピッチャーがファーストベースカバーに入るという練習をしないため、実戦では各々がぶっつけ本番で判断してプレー するしかなかった。ましてや、相手がバントしてきたらひとつアウトにすればいいというのが基本の考えで、今のようなバントシフトでファーストとサードが飛び出してくることもなかった。つまり守備側の意思でバントを成功させないようにする発想がなかったのだ。

◆『週刊ベースボール』での手記が球団批判と取られた

六六年から三年間巨人に在籍した江藤省三(元慶應大監督)が、キャンプ中のミーティング内容を丁寧にまとめあげた「川上ノート」を作り上げていた。江藤はこう証言する。

「川上野球とは、要は勝つためにどうするのかを徹底した野球。当時のコーチングスタッフはOB出身者のみで構成されていて、なあなあの雰囲気だった。そんな不文律をぶち破って、中日出身の牧野(茂)さんをコーチに呼んだのも川上さんが初めてでした。ドジャース戦法を身体に叩き込むため、キャンプの初日からバント防止のピックオフプレーやダブルスチール阻止といったサインプレーの反復練習ばかりやらされたね。

バントをやらせるにしても、打ってくるかもしれないという予想を元に守備陣形を敷いていくんです。私はポジションがセカンドだったので、状況に応じて動きを覚えなくてはなりません。例えば、一死満塁でライト前ヒットを打った場合のカットオフプレーにしても、打者の二塁進塁を防ぐ動きをするためにセカンドが一塁カバーに入るなど、覚えることがたくさんありました。今でも通用するプレーを五〇年以上前からやっているんですから、そりゃ強くて当たり前です」

六一年のシーズンは、巨人の組織プレー、サインプレーが面白いように決まった。当初、他球団はただ偶発的にやっているのだと思っていた。だがあまりにやられるので巨人が意図的に行っているのだとようやく気づいた。

七〇年に中日へ移籍した江藤は、中日コーチ陣からすぐに巨人のドジャース戦法を教えてほしいと請われる。当時どこもやっていなかったバントフォーメーションのサインや、投手と野手の牽制サイン等を、キャンプの日程表の裏に記したという。

「ルーキーの頃、川上さんがキャンプ前日に言った『理屈じゃない。理屈を超えてこそバッティングのコツを見出すことができる』という言葉が終生忘れられません。理屈を超えるくらいの努力をしないとグラウンドに立てない。一打席立つためにバットを千回振るんですから、やっぱり理屈じゃないですよ」

正しい理論を体現するには、時間をかけて身体に叩き込まなくてはならない。近代野球の礎ともいえる組織プレーを身につけるまでには、膨大な練習量があったのは言うまでもない。

広岡が良かれと書いた『週刊ベースボール』での手記が球団批判と取られ、反広岡の首脳陣から「広岡を追い出せ」と声が上がりトレード話が浮上した。幸いにもすぐ立ち消えたが、プロ入り一一年目に件の「長嶋ホームスチール事件」が起こった。

―[92歳、広岡達朗の正体]―



【松永多佳倫】
1968年生まれ。岐阜県出身。琉球大学卒。出版社勤務を経て2009年8月より沖縄在住。最新刊は『92歳、広岡達朗の正体』。著書に『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社)、『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』(KADOKAWA)、『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『偏差値70の甲子園 ―僕たちは文武両道で東大を目指す―』、映画化にもなった『沖縄を変えた男 栽弘義 ―高校野球に捧げた生涯』、『偏差値70からの甲子園 ―僕たちは野球も学業も頂点を目指す―』、(ともに集英社文庫)、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『史上最速の甲子園 創志学園野球部の奇跡』『沖縄のおさんぽ』(ともにKADOKAWA)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『永遠の一球 ―甲子園優勝投手のその後―』(河出書房新社)などがある。
 
   

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