また、劇中でも朝廷の重職らが言及していた尾張国守の一件もありました。
永祚元年の巨大台風については、後々まで台風のことを「永祚の風」と呼ぶほど影響が大きかったそうです。
結構ドラマチックな4年間だったことは、覚えておいて損はないでしょう。
気になるみんなの年齢は?
新キャラも登場し、世代交代もじわじわ進んでいるようなので、ここらで再び皆さんの年齢を確認しておきましょう。
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※永祚2年(990年)時点。諸説ある人物については「大体そのくらいなんだな」とお考え下さい。
まひろの家族
- まひろ(紫式部)……21歳。天禄元年(970年)生まれ説
- 藤原為時……42歳。天暦3年(949年)生まれ説
- 藤原惟規……17歳。天延2年(974年)生まれ説
- 藤原宣孝……不明。40代前半~半ば?
道長の家族
- 藤原道長……25歳。康保3年(966年)生まれ
- 源倫子……27歳。康保元年(964年)生まれ
- 源雅信……71歳。延喜20年(920年)生まれ
- 藤原穆子……60歳。承平元年(931年)生まれ
- 藤原彰子……3歳。永延2年(988年)生まれ
- 源明子……26歳。康保2年(965年)生まれ
- 源俊賢……31歳。天徳4年(960年)生まれ
兼家の一門
- 藤原兼家……62歳。延長7年(929年)生まれ
- 藤原道隆……38歳。天暦7年(953年)生まれ
- 高階貴子……生年不詳。道隆と同年代か
- 藤原伊周……17歳。天延2年(974年)生まれ
- 藤原隆家……12歳。天元2年(979年)生まれ
- 藤原道兼……30歳。応和元年(961年)生まれ
- 藤原繁子……生没年不詳。40歳前後か
- 藤原尊子……7歳。永観2年(984年)生まれ
- 藤原道綱……36歳。天暦9年(955年)生まれ
- 藤原寧子(右大将道綱母)……55歳。承平6年(936年)生まれ説
朝廷の人々
- 一条天皇……11歳。天元3年(980年)生まれ
- 藤原定子……14歳。貞元2年(977年)生まれ
- 藤原詮子……29歳。応和2年(962年)生まれ
- 藤原実資……34歳。天徳元年(957年)生まれ
- 藤原公任……25歳。康保3年(966年)生まれ
- 藤原斉信……24歳。康保4年(967年)生まれ
- 藤原行成……19歳。天禄3年(972年)生まれ
- 藤原公季……35歳。天暦10年(956年)生まれ
- 藤原為光……49歳。天慶5年(942年)生まれ
- 藤原顕光……47歳。天慶7年(944年)生まれ
- 安倍晴明……70歳。延喜21年(921年)生まれ
当時の針は1本いくら?蕪との物々交換について考察
劇中、市場においてまひろたちが蕪(かぶ)と針の物々交換を求めるも、商人に断られてしまう場面がありました。
商人の様子を見る限り、物々交換を禁じられているからというより、純粋に蕪の価値が低かったのだと思われます。
ところで、当時の針はいくらくらいの価格だったのでしょうか。
具体的に針がいくらだったのかを記した史料は見つけられませんでした。
ただ、参考として『延喜式』に針の原料となる鉄の物価(米との交換レート)を見つけたので、これを元に推測してみましょう。
『延喜式』によると、鉄と米と交換レートは鉄一挺(三斤五両)につき米五束。重量単位については諸説ありますが、鉄2キロあたり米15キロと仮定しましょう。
米の価格はピンキリながら、今回は1キロ400円として、15キロなら6,000円。
つまり鉄は2キロで6,000円、1キロあたり3,000円と仮定します。
さて、鉄1キロで何本の針が作れるのでしょうか。
現代の一般的な縫い針は1本あたり0.25グラムとのこと。
ただ、縫う生地によってより太くて長い針も必要なので、ここは計算を簡単にするため1グラムと仮定しましょう。
1キロは1,000グラムなので、鉄1キロから針は1,000本作れますね。
つまり針1本の原料原価は3円と割り出せました。
ここに自分の人件費や針の製作コストを上乗せし、ある程度のセットにすれば針の価格が求められます。
今回の商人がどこまでシビアに商売をしているか、固定費はいくらなのかは本人に聞かないと分かりません。
例えば住まいが借地であれば、地主に支払う地代(借地賃料)などもあるし、針を研ぎ出す工法によってもコストは違うはずです。
結局ハッキリしたことは分かりませんが、手間賃やコストを2~7円とすると、針1本の売価は5~10円。10本セットで50~100円と仮定できました。
まひろの出した蕪には、それだけの価値がなかったことが考えられます。
蕪の市場価格についてヒントとなる史料を見つけたら、そっちについても考えてみたいですね。
相次ぐ国司の横暴…「尾張国郡司百姓等解文」事件について
劇中でも言及されていた通り、尾張国では国守の藤原元命が暴政を振るうあまり、百姓らが朝廷に訴え出る事件がありました。
尾張国郡司百姓等解文(おわりのくにのこおりのつかさならびにひゃくしょうどものげぶみ)は現代まで伝わっています。
「地方では、悪徳役人が私腹を肥やして民百姓を搾取しておる。許せん!」
朝廷では、そんな正義感に燃えていたかと思えばさにあらず。
この藤原元命、実は花山天皇の治世下において藤原義懐や藤原惟成らと共に権勢を奮った一人なのです。
つまり朝廷としては「前政権の残党を粛清した」に過ぎず、後に元命は政界に復帰しています。
要は「摂政様(兼家)の目が黒い内は……」というヤツで、兼家さえいなくなれば、別に冷遇する必要もなくなるのでした。
ま、そんなもんだよね。というオチです。
朝廷では相も変わらず民百姓を虫けら同然に扱い、それは道長も変わりません。
が、それだとヒロインのお相手役として感情移入できないので、正義感に燃える設定となっています。
藤原宣孝の御嶽詣で
永祚2年(990)3月、藤原宣孝は派手な衣装で御嶽詣でに行ってきました。
この様子は清少納言(ききょう)の随筆『枕草子』で批判的に書かれています。
意訳すると「何なの、あの派手な衣装は。厳粛な空気が台無しったらありゃしない。でもまぁ、目立って神様のお目にとまったからか、出世できて何よりね」と言ったところ。
後にまひろ(紫式部)の夫となる宣孝をバカにしたことが、面識もない清少納言を批判させる動機になったとの説もあります。
が、流石に(二人の結婚から)10年近く昔のことを、そういつまでもネチネチ恨むでしょうか。
……いや、まぁ恨みますね紫式部なら。彼女はそういうヤツです。
ちなみに、現時点において宣孝には三人の息子が生まれています。
劇中では婿をとらせてくれないか、と為時が宣孝に頼んでいましたね。
【宣孝の息子たち】
- 藤原隆光(天延元・973年生)母は藤原顕猷女
- 藤原頼宣(よりのぶ。生年不詳)母は平季明女
- 藤原隆佐(寛和元・985年生)母は藤原朝成女
※以下略(まだ生まれていないか、定かでない)
まひろの婿になれそうなのは、長男の藤原隆光(まひろの3歳年下)くらいでしょうか。
「いやいや、まひろとは教養的に釣り合わない」
などと断る宣孝でしたが、その真意は(1)不遇の為時に深入りしたくない(2)本当に釣り合わないと思っている(3)むしろ自分が……どれでしょうね。
第14回放送「星落ちてなお」
今週も色々と盛りだくさんな(だけど実はすっ飛ばしている)回でしたね。ちょっとネタが多くて拾い切れなかったので、また改めて紹介しましょう。
さて、兼家の「政とは、我が家を保つこと。それを理解する者こそ後継者と知れ」という言葉を受けて、道長の反発する展開が期待されます。
兼家の死後、兄弟による骨肉の争いがいよいよ幕を開ける……平安時代のお楽しみと言えば、この政争劇。次週も目が離せませんね!
トップ画像:大河ドラマ「光る君へ」公式ページより