Wは社長と事務員さんをスルーし、体を左右に揺らしながら私に近づいてきました。
事務所見取り図(筆者作成)
額から滝のように血が流れ…
このときの私の装備は特殊警棒だけ。防刃チョッキは着ていません。
通常、警棒は縮めた状態で携帯します。しかし、本当にたまたまですが、Wが来訪する少し前に、社長から「警棒を見せて」と言われて伸ばしていたのです。一度振り出した警棒は縮めるのが大変なので、この日は伸ばしたまま腰の後ろに差していました。私は、既に伸びた警棒を、Wから見えないよう体の横に隠し、間合いが詰まるのを待ちました。
警棒が届く距離に近づく直前、Wは逆手に握った包丁を振り上げました。と同時に、私は空手の上段受けのようにWの手首を警棒で打ち、返し刀で額を水平に払いました。
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包丁は落とせませんでしたが、直後にWの額から血が滝のようにダーッと流れ出ました。高確率で過剰防衛に問われる案件ですが、他の手を考えたり、手加減したりする余裕などありません。
通常、人間は、自分から流れ出た大量の血を見ると、十数秒ももたずにへたり込みます。しかし薬物の影響だと思いますが、Wは1分以上も臨戦態勢を崩しませんでした。ただし、流れた血が目に入り、われわれが全く見えなかったようです。わめきながら後退し、壁を背にして包丁を左右小刻みに振っていました。
とはいえ、攻撃ができる状態ではありません。玄関近くの壁を背にして座り込み、左手で額を押さえ、右手で包丁を突き出してけん制していました。自分から刃物で襲いかかったくせに、「ドス持ってるなんてズリィーぞ!」とも言っていました。どうやら、銀色の警棒を刃物と思い込んだようです。
できれば取り押さえたいですが、包丁を手にしている相手に近づくのは得策ではありません。離れている限り危険はないので、社長と事務員さんを奥の倉庫に避難させ、私はWを監視しました。その間に、事務員さんが110番通報をしていました。
念のため、椅子とテーブルで簡易的なバリケードを作りましたが、警察が到着したのは、通報から10分以上たった頃でした。110番の平均レスポンスと実際の到着時間は、状況によって変わるので仕方ありません。
何より驚いたのは、到着した警官が完全防備で、しかも10人近くいたことです。「薬物中毒者が刃物を振り回している」と通報していたからでしょう。あとは警察に引き継ぎ、私は取り調べのため所轄署に同行しました。
「逃げる」選択肢は「ない」ケースの方が多い
やむを得ないとはいえ、相手にけがをさせているので、告訴も覚悟していましたが、訴えられはしませんでした。正直、ベストの対応とはいえませんが、クライアントの社長に喜ばれたのは幸いです。
その後も次々と「招かざる客」が現れる、休む間のない現場でした。とにかく1人きりで手一杯だったので、緻密さとは常に程遠い状態なのです。身辺警護というより、用心棒ですね。正直に言って、かなり運に助けられていたと思います。
また、彼らは横のつながりがなく、複数人で来ることが少なかったのも幸いでした。襲われる回数は多かったですが、相手が少人数だったので何とかなったのです。狭い事務所で、本気で乗り込んできた大勢に襲われたら、1人ではとても防ぎ切れません。結果的にこの案件は無事に終わりましたが、計画の重要さを痛感しました。
プロによる警護も個人の防犯も、被害に遭わないためには「危険の予測」が必要です。多くのトラブルは、それだけで回避することができます。とはいえ、毎回プラン通りにはいきません。中には避けようのない攻撃もあるのです。
襲われたときに大事なのは「逃げること」とよくいわれます。確かにそれが大前提です。警護計画でも、避難ルートの選定は重要な項目です。しかし現実には、「逃げる」という選択肢が「ない」ケースの方が多いのです。つまり、最悪の場合は戦わざるを得ないことになります。
護身術とは、車に例えるとエアバッグです。作動しないのがベストですが、最後の安全装備として欠かせません。ただし護身術の場合、圧倒的に有利なのは先手です。しかし、いくら相手が危険な人物でも、先制攻撃ができる人は少ないでしょう。恐怖だけでなく、過剰防衛など、その先のことを考えればブレーキが掛かるのは当然といえます。
一方で、多くのケースでは、“今”を優先しなければ自分や大事な人を守ることはできません。「ペナルティー」と「守るべきもの」…これらを一瞬でてんびんにかけるという無理難題が、現行法では求められます。
危機意識とマナーは相関関係があります。一般的に「マナー違反」といわれる行為は、周りに迷惑なだけでなく、危険を招きやすいのです。その最たる例が「歩きスマホ」でしょう。周りにぶつかりやすいということは、情報がシャットダウンされた無防備な状態であり、防犯や護身の観点からいうと致命的といえるのです。
残念ながら、最終的に護身術は必要です。護身術を必要としないためには、危険から意識的に遠ざかるしかありません。そして多くの人には、この意識が足りないように感じます。