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【浜田麻里 40周年インタビュー】第3弾:初のレーベル移籍&長年にわたるライブ活動休止に至った背景とは? 世界的な活動の裏で抱えた“理想の環境とのギャップ”

Real Sound

 『COLORS』のレコーディング中、いや、それ以前からなんですが、グレッグとはどうしてもぶつかってしまい、かなり現場は大変だったんです。根は優しいところもあって決して嫌いではなかったし、ある意味では仲も良かったんですけど、彼のミキシングに対して、私が納得できない部分を話してリクエストすると、途端に機嫌が悪くなることが多くて。アルバム終盤ともなると必ずぶつかってしまう、そんな制作過程でした。それも彼が故人となった今となっては懐かしく、楽しくすら感じる思い出なんですけどね。

――そうでしたか。

浜田:そういう揉め事自体は、良い作品に仕上げるために当たり前に起こることと私は感じていましたが、グレッグは一度機嫌が悪くなるとプイッとどこかに行ってしまったりして、レコーディング期間のリミットが迫る中、焦りが募りました。ニューヨークでのMV撮影のため一度中断して、またロサンゼルスにとんぼ返りしました。ビクターからも「早く納品を」と急かされていましたし、すでに全国をくまなく廻るツアースケジュールも決定していたんです。しっかりと迅速に仕上げたくて、私も意見が強くなり、またそれが揉め事に拍車をかけました。でも結局、グレッグは最後はリクエストに応えてくれるんですよ(笑)。そこに彼の意識を持って行くまでが大変なんです。

 そんなこんなで、本当はお互いを認めていて感謝もしているのに、グレッグとはなんとなくスッキリしない気まずい雰囲気で、仲直りをしないまま、レコーディングを終えて帰国しました。それもこれも、ギリギリに迫ったアルバム納品日に間に合わせるためでした。そしてリリース日を迎えてすぐにツアーという予定だったんですね。けれど帰国後に伝えられたのは、アルバムのリリースが2カ月延期になったという情報でした。理由はビクターの大事なアーティストのリリース日を優先するためということで……張り詰めていた心がまた崩れていきました。ツアーも、アルバムリリースを迎える前にスタートしなくてはなりませんでしたので。『Return To Myself』(1989年6月)大ヒット後の大事なアルバムリリースでしたが、なんとなく『COLORS』は、ビッグアーティストの影に隠れてしまったんです。そんな私の心の揺れを見透かすかのように、周りにはレーベル移籍を勧めてくる人たちが増えていきました。私もいつしか、もう移籍したいと思うようになっていったんです。

――なぜMCAビクターだったんですか? 当時のシングル/アルバムのセールス実績を考えれば、移籍したいと言えば、手を挙げるレコード会社はたくさんあったと思うんです。

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浜田:実は、私が今でも尊敬している当時のソニーミュージック系のエグゼクティブの方にお誘いいただき、本当はそちらのレーベルに移籍するつもりでした。けど、時を同じくして新しく発足したMCAへの、条件の良い移籍話が持ち上がりました。ビクターが私を引き止めるためです。悩んだ末、海外リリースの門戸も持つ、MCAビクターの“邦楽第一号アーティスト”という立場を選びました。どこか私も、最初の勢いはいいんだけど、最後はホロってなっちゃうようなところもあって(笑)。一応、私と当時の事務所社長が、ビクターが持っていた個人事務所の株を買い戻して、マネジメント的にも同時にビクターから独立をする形になりました。

――その判断をしたのは、『COLORS』を制作した後だったんですね?

浜田:はい、そうです。ツアーを全うしながら、いつしか決心してました。大規模ツアーで多くのファンの皆さんと時間を共にしている最中でしたね。

――移籍第1弾のアルバム『TOMORROW』(1991年10月)は、どんな作品にしたいと考えていたのでしょう? 移籍という環境の変化も関係してくるかもしれませんが。

浜田:『COLORS』から『TOMORROW』へというのは、まだグレッグと仕事をしていましたので、空気はそんなには変わってないですね。ただ、MCAビクターの邦楽最初のアルバムということで、やっぱり、必ずヒット作を作らないといけないっていうプレッシャーもありました。タイアップの話もいくつかいただいていましたし、自分が当時やるべきと思った、日本で活躍するアクティブな女性ロックシンガーとしての理想形を世の中に提示していこうと本気で考えました。それを求めつつ、レコード会社にも還元しなきゃいけないっていう、その両方の合間を縫ったような心持ちで制作はしたと思います。でも、それがイコール、万人受けするものを作ろうとする意識にはならず、あくまでも新しいアーティストイメージを持ちたいと考えて、自分の信じた方向に進んだだけです。参加ミュージシャンはギターのスティーヴ・ルカサーやキーボードのランディ・カーバーなど、素晴らしい演奏をしてくれましたし、結果として、私と同系統の女性シンガーがたくさん生まれてくる状況に拍車を掛けることができたと思います。それはもちろん想定内のことでしたが、やっとのこと、この辺りでデビュー当時に思い描いた、シーンを引っ張る自分になることができたという実感がありました。

「かけ離れたイメージを持たれないため、日々が究極の選択に」

――当時の日本の音楽市場、あるいはロックシーンは、麻里さんにはどのように映っていたんでしょう? 世の中的にはバンドブームと呼ばれる現象もあった時期です。

浜田:当時の詳細まではわからなかったです。記憶もないんですよね。『IN THE PRECIOUS AGE』(1987年)の頃からは日本にいない期間がすごく長くなっていましたし、コンサートツアーも長いものでしたので。当時の日本のバンド事情なんて考える暇もなかったですし、正直に言うと、元から興味もないんです。バンドブームですか……全然実感はないですね。そういえば、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(日本テレビ系)で、まだアマチュアの頃のX(後のX JAPAN)が「早朝ヘビメタ」とかって、寝ている人のところに行って急にハードな演奏をするという企画をやって話題になってましたよね。私にはあの番組から「失恋ヘヴィメタル」でライブをやってくれという熱心な依頼があったんですよ(笑)。

――失恋ヘヴィメタル(笑)?

浜田:そう(笑)。その頃の私は一般にはだいぶポップになったねと言われて、歌番組などにも出ていましたけど、自分の中ではどこかで一線を引いていて、バラエティ番組には出ませんでしたし、気持ちはストイックなままでした。番組の企画内容は、失恋したばかりの人たちをお客さんとして、海岸に設置された会場に集めて、私のライブで号泣しながらヘッドバンギングさせるという(笑)。確かに企画としてはテレビ的に面白い映像が想像できますし、お笑いとしての場面も浮かびます。もし私が視聴者だったら、きっとプッと笑ったと思います。なぜそれを覚えているかというと、私以外のスタッフ全員、出てほしいわけですよ。視聴率がすごくいいゴールデンタイムの人気番組だから。そんな中、だんだん自分に対するスタッフの考え方に疑問を感じるようになってきていて。一つ仕事の選び方を変えると、まったく違う未来に繋がってしまう。本人とはかけ離れたイメージを持たれてしまう。日々がそういう究極の選択になりました。だから、いまだに頑固だとか怖いとかって言われてるんでしょうけど、そういうことを一切やらずにきたのが自分なんですね。それこそ今もアルバムが出るたびに、「こういうテレビ番組はどうでしょうか?」といった話は必ずあるわけですけど、視聴率がすごく高い人気番組からのオファーだったとしても、ほぼやっていないんです。お声掛けいただけるのは光栄で、とても嬉しいと思う反面、お受けできない自分もおります。スタッフですら「こんな番組を断るんですか!?」みたいな感じだと思います。

――それこそ昔は音楽番組であっても、ロックミュージシャンはテレビに出ない時代がありましたよね。前回もその件を伺いましたが、麻里さんの場合、出演する/しないの基準はどこだったんですか?

浜田:自分はロックの世界の人たちはテレビに出ちゃいけないみたいな風潮を壊したと思ってるんですね。本当に短い時間だから、それを実感してくれる人はかなり少ないんですけど、だからこそ、自分はそういう中で出演することを当時は選んだんです。やっぱり何かを起こしたい気持ちがすごく強くて。ただ、歌番組に出ることが普通になってくると、誰もがそれをやり出すわけですよね。観てくださる視聴者の皆さんにとっても、私をテレビで観ることが驚きでもなんでもなくなる。そうなると、私はもう違うところに行きたくなる。その流れですね。

 「“浜田麻里はヘヴィメタル”と言われてるけど、最初はアイドルだったんだよね」みたいなことをよく書かれるんですけど、アイドル活動をしたことは一度もないんですね。それこそバラエティ番組に括られるものだとしても、ライブがついてくるような深夜帯の番組でしたし。ライブがないもので言えば、たぶん『笑っていいとも!』(フジテレビ系)の「テレフォンショッキング」と、久米(宏)さん時代の『ニュースステーション』(テレビ朝日系/現『報道ステーション』)くらいです。昔から音楽と離れた活動はしたこともないし、ピンナップみたいなものはあったにしろ、自分があえてそれをやりたかったということもなく。

――ヘヴィメタル界のアイドルみたいな言われ方はあったと思いますが、当時は今以上にシーンが男性社会であり、女性は目立つ存在だったという程度の話ですからね。

浜田:そうですね。時代の風潮というのは恐ろしいもので、その時代の常識みたいなものと全然違う見解を堂々と言ったところで、何も理解されないような空気感ってあるじゃないですか。時代を経てからでないと気がつかない空気感です。そういう中で、本当は違うんだけど、もういいやと思って「そうなんです」なんて流したほうがいい場面っていうのはたくさんあって……昔のインタビュー映像で、「今、アイドルと言われてどうですか?」という質問をされて、「あ、嬉しいですね」みたいな感じで答えてたりするものがあるんですよね。半分ちょっとキレた顔をしてるんですけど(笑)。それを撮ったのは、松本孝弘さんの弟さんで、当時は家族ぐるみで仲が良かったんですけど、身内みたいな立場の人ですら、そういう感じでしたからね。逆に、90年代のインタビューで、「デビュー当時の売れない頃と比べて今はどうですか?」という女性インタビュアーの質問に対して、「いや、初期もそれなりにファンの方々がいて、そこそこ成功してましたよ」と答えたら、「ははは。ご自分でそう思われているなら、それでいいですけど」とか平気で鼻で笑われることもありました。時代感というのはそういう空気のことで、この仕事を続ける自分のメンタルを守る意味では、かなり強靭でいないと務まらないんですよね。生放送の歌番組で、演奏直前の歌の前振りのときに、黒柳徹子さんに「脱・ヘヴィメタル宣言!」と叫ばれてしまったこともありますしね。もちろん宣言したことはありません(笑)。

――(笑)。

浜田:またちょっと脱線しましたけど、だんだんに次のフェーズのことを考えてはいたと思います。『TOMORROW』のときは、自分の印象として、やっぱり新しい会社だったし、当時、新卒の若い宣伝チームが凄いパワーだったんですね。「Precious Summer」が『熱闘甲子園』(テレビ朝日系)のタイアップになったりしたこともヒットした要因の一つだとは思いますけど、彼らがすごく頑張って、いろんなところに音源を持っていってくれたりなど、地道なプロモーションの努力が、あの時分の成功には結びついていたと思います。嬉しかったですね。

――『TOMORROW』には今もすごく人気の高い「Paradox」も収録されていますよね。

浜田:そうですね。「Nostalgia」で増崎(孝司)くんのマイナー路線の曲が一つの自分の色になって、その流れで作った「Paradox」が今も人気曲として残ってるんですよね。それから、『TOMORROW』のときはツアーがとても楽しくて。少し抑えて50本弱ぐらいだったかな。満足度の高いツアーができて、それもよかったと思います。それが後に完全崩壊するわけなんですけど(笑)、そのときは本当にいいツアーができた実感がありましたね。バンド全体の結束力も強く、少しでもいいものにしようというやり取りも積極的でしたし、それがお客さんにも伝わったのだと思います。お客さんも楽しそうでした。

――「Precious Summer」の作曲は織田哲郎さんですよね。これはどういう流れなんですか? つまり、ビーイング系人脈だということです。

浜田:そう。織田さんとはデビュー前から面識があったので、特別すごく売れてる作曲家の方にお願いした感覚はなかったんですよ。たぶん、北島(健二)さん以上に織田さんのほうが、事務所関係のパーティとかでお目にかかる機会は多かったような気はしますね。織田さんが持っていらした音楽番組に出たりしたこともあったと思います。実はMCAビクターのサブのA&Rの方が、織田さんと麻雀をする間柄で(笑)、そのときに「浜田麻里の曲を書きませんか?」「ああいいよ、いいよ」みたいなやり取りがあって、実現したんですよ。ちょうど『熱闘甲子園』のタイアップ依頼があったときで、いいタイミングだなと思ったんです。自分で言うのもアレですけれども、ビーイングとしては私が成功すれば成功するほど、可愛さ余って憎さ百倍みたいになっていたところがあったので、クレームは来ましたね(笑)。

「プロデューサーが引きずる問題の調整役も担っていた」

ーー最初の事務所ですもんね。さて、「Border」が収録された『Anti-Heroine』(1993年3月)は、『TOMORROW』を受けてどんなアルバムを作ろうと思っていたんでしょう?

浜田:『TOMORROW』も『Anti-Heroine』もとても好きなアルバムです。ポップ系の代表作だと思っています。グレッグとのレコーディング期間は終盤でやっぱりまた揉めて、「もう嫌だ」みたいな気持ちがあって。海外リリース、それもメジャーに門戸を持つMCAビクターへの移籍だったということもあり、日本をメインとしながらも世界視野でのリリースを念頭に置き始めました。なので、新しいことをやりたかったんです。マイク・クリンクもグレッド・エドワードも、プロデューサーというよりは、どちらかと言えばエンジニアの匂いが強い人たちだったんですね。そんなときにMCAがマーク・ターナーを見つけてくれて。そこで環境はすごく変わりました。

――マーク・ターナーはプロデューサーとしてどういう個性がある人なんでしょう?

浜田:マークはコマーシャルなアメリカンハードロックの作曲家でした。ミュージシャンというより、シンガーですね。ちょうどNelsonが大ヒットしていて、彼はそのプロデュースをしていました。今、『Anti-Heroine』を客観的に聴くことはないですけど、完成度も高いし、いい意味でコマーシャルな部分とアーティスティックな部分が混ざり合った、いいアルバムになったなとは思うんですね。ただ、その1枚でマークとはお別れしたっていう流れからも明らかなように(笑)、やっぱり人間性的なものってあるじゃないですか。私には受け入れられない類の人でしたね。

――相性の良し悪しはどうしてもありますよね。

浜田:相性というか……グレッグとはまた全然違う、ちょっとダメなところがあって。フックを意識した曲を作るっていう意味では相応の才能がある人で、結果的には私もいい影響を受けたとは思います。とはいえ、いろんなプレッシャーや時間的制約がある中でいいものを作っていかなきゃいけない状況では、一緒に仕事をしたい人格者ではなかったなとは思いました。

――そのプレッシャーというのは? 当然、レコード会社から一定以上のセールスを期待されているという面も一つあると思いますが。

浜田:そのときMCAビクターには他の邦楽アーティストがまだいなかったので、私の稼ぎがレーベルの行く末を左右する状況でした。その分、会社を挙げて私をバックアップしてくれていましたので、感謝とともに大きなプレッシャーも感じ、背負っていましたね。マークのパーソナリティに関しては良いイメージはないですが、彼の曲の作り方も含めて、今の私のやり方の一端はそこにあるのかもしれないなとすら思うんです。ある程度までできているデモを叩き台にして、どんどん発展させていって、ヒット性を含む曲にまで昇華させる――マーク・ターナーはそういうやり方をする人だったんですね。でもそれは、周りからの大きな信頼を得てこそ実現すると私は思うんです。そこに、ある意味の絶対的な正当性がなければならない、ということです。マークは結構いろんな問題を引きずっていて、その調整役も私が半分は担ってたんです。たとえば著作権のことですね。

 当時は大槻(啓之)さんの曲が多くて、私が新しいメロディをつけて共作したりしてたんですけど、アメリカに行く前に、デモをほぼ完璧にしていくわけですよ。ところが、そこにちょっと手を入れた程度ではあっても、(マーク・ターナーは)自分の名前をクレジットの一番先に置こうとしたりしていたんです。そこで、日本のミュージシャンの権利を守るために、私が動いたつもりでした。実際どういう作業をしたのか日本のスタッフは誰も知らないし、よくわからない。だから私が調整するしかないんですが、なぜか次第に邪推されていったんだと思います。悲しかったですね。逆に自分がしっかりやった結果に対して、ちゃんと権利を主張するっていうアメリカのやり方も学んで、いろいろ勉強にはなりましたけど。

 それから、インターナショナルデビューもその頃だったんですよね。英語曲については、ネイティブの方々の耳にも馴染む発音で歌うために、時間をかけ、努力もしました。日本人のアクセントを感じない英語で歌わなければならない。それも今とは少し違う、一つの時代感だったと思います。そういうトライをして丁寧に作ったアルバムですので、満足度は高かったです。『TOMORROW』『Anti-Heroine』の辺りは、アルバムの質もすごく上がっていった時期ですね。『Anti-Heroine』の英詞曲「Hold On (One More Time)」はシンガポール、インドネシア、マレーシア、タイなど、多くの国で大ヒットしたんです。

――『Anti-Heroine』収録曲には、様々なタイアップがついていましたよね。その事実から、客観的に浜田麻里というアーティストがどんな位置づけだったのかが見えてくると思います。

浜田:一般的な部分で言えば、やっと成功しているアーティストに片足をつっ込めた感じはあったかもしれません(笑)。私の場合、作品に対する満足度が高いことは絶対的に必要で、それが活動のベースになってるんですよね。どうしてもファンの方々はライブ、ライブってなるんですけど、私は子供の頃のレコーディング畑からキャリアが始まっているので、まずレコーディングありきなところがあります。ライブとして歌うのは、そこから派生するものという感覚なんです。いまだにそれが逆転することはなくて。その辺りの感覚はファンのみなさんと若干乖離があることを、ずっと感じてきました。それこそ新しい作品がなくても、ライブだけはやってほしいって声は多いじゃないですか。

――実際にライブ会場で体感する浜田麻里の歌声は凄いわけですよ。それは歌っているご本人だからわからないと思いますが、だからこそ、アルバムがなくてもライブだけはしてくださいという声にもなるんです。

浜田:でも、ライブをやめてしまったんですけどね(笑)。

――そういう流れになっていきますね。この『Anti-Heroine』のリリースに伴うツアーが、国内で9年間もライブ活動を休止する前の最後のものになった。

浜田:はい。だから、コアなファンじゃない人たちは、「浜田麻里って見なくなったね」「売れなくなってフェードアウトしたんだね」みたいな印象を持ってたと思うんですけど、チケットも即完で満杯の日本武道館(1993年6月18日)もやりましたし……あのときは1日でしたけど、たぶん1日じゃないと嫌だって私が言ったんですよ。

――仮に3日間やったとしても、売り切れてしまう状況だったと思いますけどね。

浜田:時期としては一番集客力もあったと思います。そのときの武道館を最後に、パッとライブをやらなくなるっていう。いきなり消えたんですよね。また極端な行動なんですけど(笑)。

――ええ。アルバムセールスで言うならば、一番売れていたときにライブ活動をやめた。「なぜ?」と、みんなが思ったはずなんですよね。

浜田:そうなんですよ。シングルとして最大のヒット作は『Return to Myself ~しない、しない、ナツ。 』って書いてあるのをよく見かけますし、今でもテレビ番組に呼ばれるときに「『Return to Myself』を歌ってください」っていう依頼が一番多いんですけど、実はアルバムとしては『TOMORROW』とか『Anti-Heroine』のほうが売れてるんですよね。商業的には最も成功していました。『Anti-Heroine』では「Cry For The Moon」という結構落ち着いた曲を代表曲として打ち出していたんですよね。今でもとても人気が高い曲です。ブレット・ガースドのアコースティックギターもハマりましたし、強く押していく時代から、安定の時代に入って。自分としても、着実に自信を持てるようなアルバムが何作か続いたという思いがありましたし、一番いい時期だったとは思います。

――あの日本武道館公演を最後にライブ活動をやめると決意したのは、いつのことだったんですか? そのツアーが終わってからではないですよね。

浜田:記憶が定かではないんですけど、ツアーがあまりにも辛くて、それにもう耐えきれなくなったので、きっとツアー中でしょうね。スタッフに決心を伝えたのはその後だったと思いますけれど。

――辛さというのは体力的な面ではなく、バンド内の問題ということですよね。

浜田:そうですね。バンド内、そしてスタッフ内の意識と、自分との大きな乖離です。いろいろなことが一気に表面化して。自分としては、次に向けて何を目指すか、アーティストとしての展望みたいなものもあるわけですよね。『Anti-Heroine』の頃には、シンガーとしても音楽的にも、「もう次に行きたい」っていうふうに思っていて。でも、同じ気持ちでいてくれる人が周りに1人もいなかったんです。まぁ、孤独は好きなので、孤独に耐え切れないわけではなかったですけど、このままではやっていられないなっていう気持ちになっちゃったんだと思います。

ライブ活動休止に拍車をかけた複合的な要因

――『TOMORROW』のツアー自体は楽しかったわけですよね。その次のツアーなのに、ガラリと状況が変わっていた。

浜田:はい。自分の何かがそういうことを引き起こしたのかもしれないですし、いつも自分が正しいと言うつもりはないです。ただ、嘘偽りのない感触としては、「どうして人ってこんなに変わっちゃうんだろう」という思いでした。スタッフ同士の仲がすごく悪くて、その悪口を始終聞かされたりもしますし、何か思い違いをしてPAモニターの人が私に反抗心を持っていたり。さっき話したマーク・ターナーの件でも、権利問題も含めて日本のミュージシャンが豹変する感じとか……。小さな権利でも、相当の収益を生む状況が人間を狂わせていく、自分の中ではそう理解するしかありませんでした。どれが一番大変だったのか、何がライブをやらなくなった一番の理由なのか、わからないぐらいいろんなことが起きましたね。そういうことすべてに疲れ切ってしまったんだと思うんです。はっきり言うと、私のメンタルの反逆、反乱でした。

 あとは自分が忙しかったというのも大きいんですよ。今みたいに、自分がすべてに目を通して把握できればよかったんですけど、あの頃はバンドに問題が起きたときも、私はずっとヨーロッパにいて、アジアにも行っていたりとか、現場で何かを見たり、人の気持ちをフォローしたりすることができない状況だったんですね。メールもまだない時代です。それは逃げと言われればそうなんですけど、スケジュールをこなすためには、どうしようもなかったですから。世界的な活動だけに焦点を絞っていたわけではありませんでしたが、せっかくお膳立てをしていただいたので、自分ができる限り全うしなければと思っていました。けれど、私の体と頭は一つしかないわけで。スタッフもすべて担当がバラバラだったんですね。海外のチーム、日本のチーム、ライブのチーム……他にもありますが、そこに連携がないので、1人の人間がすべてをこなすのは到底無理なんです。常に別のプロジェクトの人が、私の体や頭が空くまで一つの物事が終わるのを待ってるわけですよ。それがもう限界に来たっていうのはありますね。

――もうこのままではいられない、そういう気持ちですよね。

浜田:はい。誰か1人っていうことじゃないんですよ。全体の空気ですよね。日本人って特にそういう傾向が強いじゃないですか。今回のアルバム(2023年4月19日リリースの『Soar』)にも繋がる、「Escape From Freedom」ですよ。ちょっと出る杭になると叩かれるし、一方をフォローをすると自分もいじめられちゃうから、何となくいじめっ子のほうに半分いるみたいな。そういう感じで全体が集合的に急変するんです。ワーッとテレビに出たりして、シングルがチャート上位になったときは、それこそ親戚と言う人がたくさん出てくるみたいな状況ですよ。その逆のことが突然起こったりするんですね。そういった人間の浅はかさが私は大嫌いで。自分の将来に繋がるものがありませんでした。結果的にゴタゴタの結末も含めて、すべて自分で背負いながら、一度ゼロに戻したかったんです。その後を言うと、多くの人たちと現在は仲直りをしていて。「あの当時はごめんなさい」ってわざわざ言ってきてくれた人もいるんですけど、そのときは酷かったですね。それを優しく見守っているバンドメンバーもいましたけど、そこまで来ると、バンドは一旦解体せざるを得ないですよね。となれば、ツアーどころの話ではないですから。

――では、海外で音源をリリースする、ライブを行うことについては、どのように考えていたんですか? 1980年代にLOUDNESSがアメリカのAtlantic Recordと契約して以降、日本のアーティストが海外進出を目指す動きは増えていきました。ただ、麻里さんの場合は1990年代に入ってからの話ですので、それとはまた違う視点なんだろうなと思うんです。

浜田:そうですね。やっぱりバンドとソロシンガーでは大きく違うと思います。1987年からアメリカの人と密に仕事をし始めて、私にとって海外進出は夢ではなく、現実の問題でした。いろいろな意味のハードルが身に沁みて見えるんです。MCAビクターへの移籍をした際、海外での活動も一つの条件でしたし、普通は巡ってこないお話なので、進めていただいたはいいけれど、私はすでに30歳を越えていて、「ぜひ海外で夢を実現させたい」みたいな意気込みは正直言うと持ちにくかったんです。私の親が2人とも50代で倒れて要介護状態になったこともあって、私は比較的早くから両親の介護問題を抱えていました。そんな状況で家族を置いて海外移住など、考えたこともありませんでした。

 海外活動においての私のA&Rはロンドンの有力者で、その人経由で海外用の曲も密かに作ってはいました。そのための新たなプロデューサー探しをして、何人かとコラボをしましたが、納得できる才能を持つ人は出てきませんでした。MCA推薦の方でも、これは上手くいくわけがないだろうなという感触が強くあったんですね。何も未来への焦点が見えないんです。もしも仮にそのタイミングで、本当の意味での世界戦略みたいな部分で、私の意識と合致するプロデューサーと出会っていたら、海外活動を続けた可能性は少しあったのかもしれない、とは思います。

 その最中に、海外も含めたレーベルの大編成が起きて、結局、私を売り出そうとしていた海外陣の人たちは異動や解雇になったりして、もう海外での活動を続けるために根を下ろそうという気持ちはありませんでした。いい意味で辛いのは全然嫌いじゃないんですよ。でもあまりに非合理的で。たとえば、ヨーロッパツアーでいろんな国に行くと、母国語は英語ではないんです。日本人と比べれば英語が達者な人は多いにせよ、なぜお客さんの母国語でもない下手な英語で自分は歌っているんだろうという疑問が出てきたりするんですよ。

――自分は何のためにやってるんだろうとも思うと。

浜田:そうです。話がちょっと逸れますけど、キム・ワイルドのオープニングアクトという形でヨーロッパで初めてツアーをやったんですね。たぶん、日本人のソロボーカルで初めてヨーロッパツアーをやったんだと思います。そのときの面白い話があって、移動の苦しさは大丈夫なんですけど、途中でキムが(浜田麻里と廻るのを)嫌だと言ったんだと思うんですよ。私の音楽のほうが多少ハードだし、バンドのミュージシャンが結構凄かったんですね。ギターは私の希望で増崎くんで、ドラムはトニー・トンプソン、ベースはトニー・フランクリン、キーボーディストはその後もアメリカですごく売れたポール・マルコヴィッチ。コーラスは私の妹(浜田絵里)です。

 キムは私よりも1~2世代上で、体力的にも落ちてきていたり、歌にも自信がなくなっていたりとか、メンタルがかなり厳しい状態だったんですよね。かたや私は喉も絶好調に近く調整できていて、場所によってはライブもすごく盛り上がっていた。そんな中で、なぜかイギリス人のツアーマネージャーが、「パスポートをなくしちゃったんでオランダに入れません」とか、「衣装が届かないから今日はキャンセルしませんか」とか言うようになってきたんですよ(笑)。それでも私は「やる」と答えて、結局続けたんですけどね。パリでは最初の2曲で演奏を止められてしまいましたけど。当時のキムの気持ちは、今の私にはよく理解できます。でも私は経験上、いじめる方には決してなりません(笑)。

――オープニングアクトのウケがよかったりすると、ヘッドライナーから何らかの注文が入るという話はよく耳にしましたよね。

浜田:そうですね。当時はインターネットも今ほど普及していなかったですが、当時のキムのサイトに、ふざけた中傷が書かれていたらしくて。“Mari Hamada”っていうローマ字表記が、西洋人から見ると、腹切りとか、大麻関係の単語を連想させるような部分があるみたいなんですね。そういうのを引っ掛けて、馬鹿にした中傷が晒されていました。今なら問題とされるヘイトとも感じられる内容です。キムを担当していたロンドンのA&Rが私と同じだった関係でそのツアーに参加したんですけど、私は一応、アジア圏で一番売れているMCAのアーティストという肩書きでしたが、彼らにとっては、ヨーロッパ圏だけでなく当時アメリカでもヒットしていたキムのほうが大事ですから、急激に私から引いていったところもあったのかなと。スタッフが私の立場になって、文句一つでも言ってくれれば、それに鼓舞されたかもしれません。けれどそういう人はいませんでした。一日本人が、一つの仕事に真剣に挑んで結果を残すことは本当に大変なことだったということですね。

――本気でやるなら、きちんとした環境作りからしなければいけないのだと。

浜田:そうです。より多くの人に聴いてもらうという点では、今はサブスクでほとんどボーダレスになってますから、当時とは全然違うチャンスがあるとも思うんです。ただ、あの当時は、それこそドサ回りをしてまでもツアーをやってみたいなっていう気持ちになるシチュエーションはなかったですね。年齢的にも完全に大人になってたし、日本の家族も私が守らなくてはいけませんでしたから。

――そして次回は『INCLINATION』(1994年3月)のリリースから伺っていきます。
(土屋京輔)

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